二宮康裕(二宮家総本家当主) ・文献が語る金次郎の実像
神奈川県小田原市出身、二宮家15代目の当主。 東北大学大学院で日本思想史を専攻、神奈川県内の中学校の教師を務めた後、二宮金次郎の研究に取り組みました。 二宮金次郎は今からおよそ230年前、江戸時代の末期の相模の国の農民の子として生まれ、16歳までに両親を亡くしました。 度重なる天災に見舞われましたが、捨て米から一表の米を収穫するなど様々な工夫を重ね、若くして家を再興しました。 実話と逸話が入り交じり後に勤勉で親孝行の少年として伝えられてきました。 二宮康裕さんは薪を背負った像はいくつかの事実を組み合わせて作られ、美化されて伝えられているものだと言います。 二宮さんは正確な二宮金次郎を伝えたいと、金次郎が残した日記や著作など膨大な資料を調べ、金次郎の実像に迫りました。
500ページになるような「二宮金次郎の人生と思想」を出版。 金次郎の元の原稿が物凄く多くて、読むだけで10年以上かかりました。 4っつあって、金次郎の日記が50年ぶんあります。 書簡が3610通金次郎が書いたものがあり、各地での計画書が膨大です。 彼の著作の原稿も膨大です。 そしてすべてが漢文で書かれているというのが難しい。 彼は17歳ぐらいの時に俳句の叢書に出会います。 彼の俳号を「山雪」と書きます。
「雉鳴くや七里並木の右左」
「蝶々や日和動きて草のうえ」?
「落ち角や枯れいたどりの孤独勺」? (いたどりの枯れた間に鹿の角が落ちている)
二宮金次郎は相模国足柄上郡栢山村に生まれる。 明治15年に作られた地図があるが、栢山村には等高線が1本もない真っ平なんです。 水田が広がっている。 薪を背負った像は現在1000体ぐらい残っています。 一番最初は大正13年(1924年)、愛知県前芝村立前芝高等尋常小学校(現豊橋市立前芝小学校)に建てられた。 昭和2年、昭和天皇即位を翌年に控えて一斉に全国に作られてゆく。 薪を背負った像の直接のきっかけとなったのは幸田露伴の二宮尊徳の小説だとわれている。 狩野派の絵師、小林 永興が室町時代の狩野元信が描いた朱買臣図(しゅばいしんず)というものがあり、それには薪を背負いながら書を読んでいる図で、その元絵を小林 永興が描いて幸田露伴の小説に載せた、というのがきっかけです。 明治時代の少年の理想像として作られたものと思います。 栢山村では薪運びの掟があり、12月、1月、2月にしか薪取りにはいかない。 その薪がお金になる。 薪取りは栢山村の弱者救済のための助け合いの仕組みになっている。 それが二宮金次郎一人の話に書き換えられたというのは事実です。 苦しんでいる農家に対する指針、一生懸命働けばやがて財を蓄えることが出来る、だから頑張ろうという風な指針を与えたんだろうと思います。 農業危機が叫ばれるたびに金次郎が登場します。
「安民富国」という政策、これは二宮金次郎が生涯を通じて貫いた方針です。 減税が民を富ませ、購買力を拡大させる。 結果として税収が国庫に入ってゆくというのが金次郎の考え方です。 「至誠の心」いたるところに書かれているが、二宮金次郎は自分を律するという事が第一なんです。 遺言にも載っています。 自分をぎりぎりまで絞って至誠を尽くせという事を遺言で述べています。
「仕法」政策のすすめ方、まず勤労、得たものを倹約しましょう、次の世代、自分のためにも社会のためにも譲っていきましょう。(勤労、倹約、推譲) 金次郎が37歳の時に現在の栃木県真岡市にある桜町領(小田原藩主大久保忠真の親戚)の領地が荒れ果てていて、大久保忠真が農民の二宮金次郎を抜擢する。 すぐには引き受けず8回にわたって徹底的に調査する。 1/3人口が減ったために田畑が荒れたと判断する。(現在と同じ) 対策として人口増加、やる気を起こさせる。(よく獲れると多く税をとられていた 税金対策 定額にして困っている人を焦点に助ける。福祉政策 、農家への表彰制度) 16年かかって立て直し米が倍獲れるようになる。 他の村からも要請が来るようになるう。 600ほどの村が金次郎の手法を導入した。 藩からの要請もいくつかあった。
昨日―今日―明日とあるが、昨日の稼ぎで今日を暮らし、今日の稼ぎで明日を暮らすが、昨日の稼ぎ1万円とすると、今日は8000円で暮らし2000円の余剰を作る、今日の稼ぎ1万円で明日は8000円で暮らす、それを永遠にやってゆくことによって畜財が出来る。 日々の勤労の大事さ、日々の節約が大事だと訴えた。 輪廻の図 「徳、勤、怠、失」とあり、貧乏から脱出する方法があり、一生懸命働くと富むようになるが、お金を得るとなまけ心が生じ結局貧乏に戻って仕舞う。 だから日々の勤労が大事だと説明している。 「約、富、奢、貧」 輪廻の図 貧乏から脱出するにはまず節約をする、そうすると富むようになる、贅沢心が生まれて、また貧乏になってしまうので、だから日々の節約が大事だという説明。 自然は良い時もあるし悪い時もあるので、自然と人間は合い助け合わなければならないと説いている。
現在は二宮金次郎の時代とよく似ていると思います。 二宮金次郎の考えたのは、三つあると思っていて、①減税、②荒れ地の復活、人口減少を止める。(移民政策) ③弱者救済を相互扶助で。
56歳で幕府から要請があり幕臣になり、印旛沼の干拓、利根川流域の整備など様々な大きな仕事を仰せつけられる。 金次郎が提案したのは20年がかりの政策だったが、時間がかかり過ぎるという事で受け付けられなかった。 時間がかかるのは農民の救済を優先したから。(労力を差し出せるような状況にはなかった。) 日光周辺の整備を任される。 適地適作という方針をとる。 江戸幕府は基本的にはすべて米だった。 病を得て69歳で亡くなる。 弟子は1400人余りいた。