2021年9月13日月曜日

伊藤久美(トランポリン伊藤正樹選手の母)・【アスリート誕生物語】

伊藤久美(トランポリン伊藤正樹選手の母)・【アスリート誕生物語】 

伊藤正樹さんが引退したのは2019年5月でした。  母校の金沢学院大学で後進の育成のためコーチをやっていました。  昨年9月に自分でトランポリンクラブを立ち上げました。   天井の高さは10mあります。   8mぐらいは跳びます。  20秒ほどの間に技を10回違う技を披露しなければなりません。   

2歳の時に始めて小学校3年生の時にオリンピックの強化選手に選ばれました。    3年生ぐらいまではとんとん拍子で上位をキープしていましたが、4年生の時には3大会連続で中断して決勝に出れないことが続きました。    3回目の時には大泣きしていました。   「お母さんも頑張るから又練習だね」と励ましました。   正樹が4歳の時に乳がんということが判って、手術をしてしばらく留守にしていました。  子供心にも判っていたたようで、「お母さん頑張るよ」と言葉に出ていました。   病院に通いながらも「自分に勝つんだよ」と励ましていました。    

兄、姉がいましたが、正樹も運動神経は良く一番飛び抜けていました。   スキー、水泳でもすぐにうまくなっていきました。   トランポリンは楽しくてしょうがなかったようです。  高さは小さいころから同年代の子よりも高かったようで、コーチからも褒められていました。  小学校3年生の時トランポリン一本に絞りたいという事でそのようにしました。  夜5時から8時まで練習していました。  小学校3年生の時にオリンピックの強化選手に選ばれました。   2000年にオリンピックの正式種目になりました。

しつけは良いことと悪いこととの判断がしっかりできて、挨拶がきちんとできる子に育ってほしいと、いつも声掛けをしていました。   幼稚園で障害を持った子と自然に接していて優しく接していましたので、小学校に行っても同様に優しくしていました。  トランポリンだけでなく何かうまくいったら褒めていたりしました。   姉が野菜を食べなくて正樹も同じように野菜が食べられませんでした。   上の二人も段々いろんなものを食べるようになったので、そのうち食べられるようになるかと思ってあまり口には出しませんでした。   ヒレカツ、から揚げ、ハンバーグは大好きでした。 

シドニーオリンピックを見に行って、小学校の卒業文集にもオリンピックに出たいと書いていました。  中学でも北京オリンピックに出たいと書いていました。   中学では全日本で優勝、高校では本人の希望の金沢学院東高等学校に進学。  寮生活なので多少心配がありましたが、何かあったら先生や周りのご父兄に相談しなさいとは伝えておきました。 用がなくても時々見に行きました。  2008年の北京オリンピックは代表を逃しました。   オリンピック選考会の時には自分の演技が出来ませんでした。  補欠になってその悔しさがあったみたいで、しっかり練習をしていました。   そのあとのすべての大会では優勝とか上位の成績を残していきました。  ランキングも1位になりました。  

ロンドンでは4位、リオデジャネイロオリンピックでは6位。  二大会とも家族とかコーチなどと供に見に行きました。   リオでは腰を痛めていて出来てほっとしていたのではないかと思います。   高く跳ぶことは多少才能があったのかとは思いますが、あとは努力、努力の積み重ねです。   辛いといったことは一度もありませんでした。

身体は整体師に見てもらっていて、首、背骨、腰のずれ、左右の足の長さのずれなどを直して見てもらっていました。  大きな大会の前には必ず行っていました。  

2019年現役を引退。  目の前が東京だったので、何とか東京に出てもらいたいという思いがありましたが、 腰痛ともずーと戦って来たし、本人が決めたことなので、受け入れました。   リオデジャネイロオリンピックの直前のインタビューで「幼いころ乳がんと戦いながら支えてくれた母に金メダルをプレゼントしたい。」という話でした。  10年間病院に通いながら病気と闘ってきて、正樹はそれを見ながら私が正樹を支えていると判っていてくれたんだなあと思いました。  私も正樹の頑張りを見て病気と戦えたので、正樹に感謝しています。