鈴木賀子 ・戦災孤児、そして、「駅の子」に
鈴木さん(83歳)は戦時中、東京 江東区で暮らしていました。 鈴木さんの日常を一変させたのは昭和20年3月10日の東京大空襲でした。 当時鈴木さんは7歳、親を失い戦災孤児となりました。 その後引き取られた先で暮らすのもかなわず上野駅の地下道で駅の子として生活することになりました。 鈴木さんは戦災孤児、そして、「駅の子」として何を経験し、何を見てきたのか伺いました。
学校から帰る時にはB29が飛んで来たら、どこの防空壕でもいいから飛び込みなさいと、いつも言われていました。 「死んでお国のために尽くせ」とか、小学校1年生でも常に耳に入っていました。 当時父はいなくて、母と姉二人、私、弟でした。 食糧難で朝早く鍋をもって並んだことを覚えています。 お米はわずかで野菜を入れてお汁が多い雑炊をみんなで分けて食べました。 それでも3月10日以降のことを考えたら幸せでした。 3月10日の大空襲では焼夷弾によって焼き尽くされ、およそ10万人が亡くなったといわれています。 寝ていたら空襲警報が鳴って「防空壕に行きなさい」という事は覚えています。 防空壕に入っていたら「いつもと違うね」と母親が言ったのを覚えています。 「大事なものを持って、お姉ちゃんと一緒におばちゃんのところにいっていな。」 というのが最後の言葉でした。 姉と行こうとしたら周りは火の海でした。 逃げまどう人がいっぱいいて、はぐれてはいけないと思ってしっかり姉の袖を握っていましった。 姉は弟を負ぶっていて3人でした。 折り重なって死んでいる人たちを見ました。
何とか翌朝家に戻りましたが、全部焼けていました。 母と姉は戻ってくるだろうから待っていようという事で待っていました。 いくら待っても来ないので大井のおばさんのところに行こうという事になったと思います。 「母と姉は逃げきれなくて死んだんだよね」と姉がいっていました。 ほかにもいっぱい逃げてきていて、大井のおばさんのところで雑魚寝をしていました。 翌日か、翌々日にはここには居られないと姉が思ったようで、荒川区のおじさんの家のほうは燃えていないようだという事でそちらに向かったようです。 姉は職場(国鉄)に戻ると言って戻って行きました。 親戚のおばさんらしい人が来て食べ物をくれてむさぼるように食べました。 おばさんと一緒に弟と電車に乗ったら、なかなか降りないのでどこへ行くのか聞いたら、「北海道の小樽へ行って、おばさんちの子供になるのよ。」と言われました。
最初は優しかったが、箸の上げ下ろしまで文句を言っていました。 そのうち手をあげるようになって、弟がおねしょをしてよくたたかれました。 弟をかばったりすると「もらってはきたけれどこんなに可愛くないとは思わなかった。」と言っていました。 或る時弟が居なくなって探したら、小樽の駅でうずくまっていました。 「ごはんが食べられなくてもいいから東京へ帰ろう」と言いました。 話したら、「判った、返す」と言いました。 青函連絡船の船に乗って、弁当を買いに行くと言ってお母さんが居なくなって、二人になった時にどうしようかと思いました。 甲板に出て泣くだけ泣きました。 姉が勤めている駅は高円寺だという事を思い出して、何日かかったのか覚えていませんが、それだから帰ることが出来ました。 食べ物がないので一軒一軒物乞いして歩きました。追っ払われたりしましたが、中には食べ物をくれる人がいて、弟と二人で駅で食べていました。
姉と会う事が出来て、「まさか会えるとは思わなかった、お前は強いね。」と姉がいっていました。 姉が暮らしている寮に一緒に入らしてもらいました。 当時ものが盗まれたりして、姉が責められる姿を見てかわいそうに思いました。 3人で上野に行ったら、地下道にはいっぱいいました。 入口のところに私と弟を置いて姉は職場に帰って行きました。 お手洗いは公園にあるし、水道はあるしここにいることにしました。 亡くなる人は毎日のようにあり、2,3人で運んでいきました。 暴言を吐かれたり、殴られたりはしなかったので、空腹だけど小樽よりはいいと思いました。 闇市の残飯、ゴミ箱に捨ててある食べ残しで食べられそうなものを手当たり次第に食べました。 昼頃になるとベンチで弁当などを食べようとするので、5,6人のグループで(上は中学生ぐらい下は私でそれぞれ役割があり)で、弁当を開いたところをすっと盗むわけです。 逃げる道と集まる場所は決めてあります。 食べる量は大したことはないですが、弟の分も確保しました。 食べること、生きる事に精一杯で悪いことなんて思っていませんでした。
上野の地下道には3,4か月いました。 姉が双葉園という孤児院を捜してきてくれましたが、一杯で弟しか引き取ってくれませんでした。 茨城の農家で引き取ることにはなりましたが、3人子供さんがいて貧しい農家で、そこでも口ではやられました。 ご飯は一善しか食べさせてもらえませんでした。 2~3か月で別の家に引き取られました。 ご飯を食べて,「お替わりは」と言われて、途端に涙がぶわーっと流れました。 その家で食べさせてもらって、中学が終わるまで居させて貰い本当にありがたいと思いました。 恩があるので村のなかでいい子でいようと背伸びしていました。 学校から帰って友達と遊ぶことはなく全部うちの仕事をしていました。 自分の弱みは見せまいといつも思っていました。 先生からも「お前疲れるだろう」と言われました。 お母さんがガンで亡くなる前に、「あんたにもうちょっと甘えてもらいたかった。」っていいました。 そうかと後悔はしました。
戦争が終わったと感じたのは、鈴木と結婚するまではずーっと引きずっていて、結婚するといろんなしがらみがなくなり、周りに気を使うことがなくなり、自分の城が持てるので、それで気持ちが変わりました。 戦災孤児だったという事は私の力になっていて、心の傷にはなっていません。 人に甘えるということができない、それは鈴木からも言われました。 どんな馬の骨とも判らない私を食べさせて学校に通わせてくれた、そんな有難いことはない。 そのお母さんには誰よりも感謝しています。 それがなかったなら自分はどうなっていたかわからない。