原田のりあき(アコーディオン修理職人))・アコーディオンの調べ 心の癒しに
原田さんが職人としてスタートしたのは52歳の時でした。 それまでは音楽にかかわりのない職種で働くサラリーマンでした。 ふっと耳にしたアコーディオンの音色に導かれるように、会社勤めを辞めて職人の道へと進んだ原田さんに人生を変えた楽器の魅力について伺います。
このアコーディオンの重さは約10kgあります。 これは中くらいの重さです。 ピアノ鍵盤式とボタン式があります。 蛇腹を左手でこぐと同時に伴奏を入れながら弾いてゆきます。 これはイタリア製です。 アコーディオンは正面からお客さんに見られるので、表面の色とかデザインに気を使っている楽器です。 これは15年ぐらいのアコーディオンですが、50年、60年手入れをして使っている人もいます。 200年前に作られて改良されてゆきいろいろな国に広がってゆきました。 もともとは結婚式とかお祝い事とかパーティーとかで踊りの輪が出来て、はやし立てるような楽器として発展してきました。 日本ではあまり踊りがないので、歌の伴奏とか、ほかの楽器との合奏とかで発展してきました。
今は昭和の後半か平成に生まれた方が主に使っています。 女性が多いです。 ピアノとかギターは音が減衰してゆきますが、アコーディオンは蛇腹が動いている限りは音は減衰しません。 面白い音が作れる楽器です。
アコーディオンの調律とか修理をする人は全国で4,5人です。 楽器店に所属している人を合わせても10人足らずです。 凝り性の人が多いです。 部品は全部ばらすと5000個ぐらいありますが、構造的にはシンプルです。 これまでに2000台以上は修理しています。 会話を通して、本人の気持ち、欲求を満たすような音色を出せるように気を使って修理をしています。
「「パリの空の下」という曲をよく気分転換などに弾きます。 映画『巴里の空の下セーヌは流れる』の挿入歌です。 フランスでは国民的な愛唱歌になっています。 日本でもアコーディオンをやっている人はほとんど弾いていると思います。
*「パリの空の下」 演奏:原田のりあき
現在72歳、アコーディオンの調律とか修理を手掛ける職人になる前は、一部上場企業に勤めるサラリーマンでした。 新規事業を任されてアウトドア用品の商品開発や、営業などを担当。 1970年代の後半、余暇活動の中で野外レクリェーションに目をつけて、新規事業化を考えました。 会社のトップが新規会社を作ろうという事で、私に話が回ってきて新会社でやっていたら、途中で旅行業も一部任され、アウトドア小売店のチェーンもあって事業買収などもして、一時期100名ぐらいの会社になり、社長をやっていて大変忙しかった。 1990年代になるとこの業界に進出する会社が多すぎて、混乱してきました。 本社のトップからこの事業を辞めて収束に向かえという話があり、反対はしたが、選択肢がやるか辞めるしかなかった。 精神的にも苦しい時で、ほかに余暇はないのかと考えてはいました。
レストラン酒場で聞いていい音だと思って、何の音なのか聞いたらアコーディオンの音という事でした。 若いころからギターをやっていたし、30代からチェロもかじっていたので、アコーディオンも弾いてみたいと思いました。 アコーディオンの教室に行ってアコーディオンも購入しました。 社長業をやりながら5年間アコーディオンを習いました。 包みこんでくれるようなやさしさ、音色がありそこに惚れました。 楽器の構造とか種類だとかにも興味が向いてきて、インターネットで海外の人との交流の中で購入したりいろいろ教えてもらったりしていました。 トップとの軋轢のなかで半分もう辞めようという気持ちがあったので、週末は週末と割り切っていました。 自分で分解しているうちにハード面が判ってきました。 気が付いたら自分の買った楽器が10台、15台となっていました。 仲間から修理の話とかが出てきて、今の母体が出来上がってきました。 楽器を通して調律もやっていて演奏家の人との出会いがあり、興味があったら教えてあげるという事で、プロの仕事の仕方をびっちり教えてもらいました。 それが今の基盤になっています。 その後ドイツ、イタリアなどに行って、情報、やり方などについて学びました。
会社を辞めることについては、親とか、周りからも心配はされましたが、やりたいことがはっきりしていたので、或る程度はうまくいくだろうという思いはありました。 さび付いた気持ちのまま会社に居続けるよりは、収入がゼロであっても納得できる時間、納得できる仕事で自分の人生で行きたいという思いが多かった。
コロナ禍で不安になる、すさんだ気持ちになって来る時に、アコーディオンの音色がうまく慰めてくれる、アコーディオンの揺らぎ感が心地よい。