スティーヴ エトウ(パーカッショニスト)・【にっぽんの音】
パーカッショニスト(重金属打楽器奏者) ジャンベ(西アフリカ起源の太鼓で、打楽器のひとつ)、コンガ(元来キューバの民族楽器であった。 樽型の胴の上面にヘッド(皮)が張ってある打楽器(膜鳴楽器))、ドラムカン、トラックの金属のバンパー、段ボール箱、などいろいろなものを使います。 「楽器をどのぐらいもっていいますか」と言われますが、「2トンぐらいですね」と答えています。 ホームセンターに行くと何となく叩くのが習慣になっています。
90年代に布袋君(ロックミュージシャン)のツアーでインダストリアルな音、工場音、金属をたたく音など音を記録できる機械に入れて、ゴム板みたいなものを叩いてそれをセンサーが感じて音を鳴らすのを使っていましたが、ゴム板を叩いて音を出しても説得力がないと思って、直に出るようなものを叩く方が面白いのではないかと思い、ドラムカン、トラックの金属のバンパーなどを叩くようになりました。
1958年生まれ、親がミュージシャンでアメリカで生まれました。 6歳までニューヨークのマンハッタンにいました。 父は全盲のカリスマ箏曲家衛藤公雄です。 宮城道雄の一番弟子でした。 弟は和太鼓奏者レナード衛藤。 父がカーネギーホールとか日本に帰ってきて国立劇場でやっているのを見ていて、凄く華やかにやる人でした。 とてもできないと思って音楽からは離れていたんですが、結果的にこう言う事になりました。 2015年に東京から奈良に移りました。 渋谷に住んでいましたが、街がどんどん変化して行ってしまって、子供の頃の思い出が全部消えて行ってしまいます。 そういったことに疲れた時に、縁あって1000年の建物がある奈良に移り住みました。
*「兄弟仁義なき戦い」 ライブ人間なので最初で最後のアルバムです。 兄弟で叩き合っています。 和太鼓:レナード衛藤 他の楽器:スティーヴ エトウ 即興でやっています。
中学、高校時代は第一期フォークソングブームで、みんなギターを買ってきて歌っていました。 ボンゴを買ってきて始めたのが最初でしたが、どこもやる機会がなくて、大学の時に入ったサークルが軽音楽部みたいなところで、百数十人いました。 ニューミュージック、ヒュージョン(ジャズとロックとアフリカ音楽を混ぜたようなもの)とかあって、僕のような楽器を扱うのは僕一人だけでが常に僕の楽器が舞台にあるような状態でした。 20歳ぐらいからお金をもらうツアーにも参加するようになりました。 一番最初は西田敏行さんの「もしもピアノが弾けたなら」ツアーでした。
プロになって40年ぐらいになります。 弟はドラムを始めて、高校を出てドラマーになろうと思っていたようでしたが、兄がレコード会社に勤めていて、仕事の関係で佐渡に行ってみろと言われて行って、和太鼓の世界に入って行きました。 私は家では一切音楽は聞かないです。
*「輝ける未来に寄せて」 作曲:衛藤公雄(父が13歳の時に作った曲) 箏奏者:衛藤公雄
今日持ってきた楽器は薄い胴に皮を張ったもので、タンバリンのスズがないようなもので、凄くでかいものです。 皮の直径が1mあります。
*源平合戦で那須の与一が扇の的を射るところを僕(大蔵基誠)が語らせていただいて、そこに音を乗せていただく。 (コラボレーション)
日本の音とは、お寺の鐘の音と鹿の鳴き声です。
奈良の東大寺のお水取りを見てびっくりして、最初の2年間は仲間(ちゅうげん)としてお坊さんの付き人役をやって、次の3年間は厨房でひと月に渡って精進料理を作っています。