2021年9月18日土曜日

澤田隆治(テレビプロデューサー)    ・戦後上方芸能史(3)

澤田隆治(テレビプロデューサー)    ・戦後上方芸能史(3) 

戦後しばらくして自由を取り戻した日本のラジオ、昭和26年には民間放送が登場して浪曲、漫才、落語などその演芸番組は家庭で楽しめる娯楽の中心になっていました。  昭和8年に大阪に生まれて、戦後外地から富山県の高岡に引き上げてきた澤田さん、やがて故郷の関西に戻って大学を卒業すると昭和30年に大阪の朝日放送に入社ます。  ラジオの演芸プロデューサーになった澤田さんは、多くの寄席中継や娯楽番組を制作します。   昭和30年代はラジオの時代からTVの時代に移ります。  コメディー番組やドラマに携わり、最も人気を集めた番組のひとつが、昭和37年から6年近く続いた朝日放送TVの「てなもんや三度笠」 最も高かった視聴率が東京で42.9%、大阪では64.8% プロレスやドラマを抜いてトップに立ちました。  その後番組制作会社で情報番組、バラエティー番組、ドラマなどの番組や地方博覧会のパビリオンなどをプロデュース、1980年代の漫才ブームの仕掛け人としても知られています。     最終回の今日は大阪の各局が制作した番組がどのようにぜんこくで人気を博したのか、関西弁の番組はどう言ったらほかの地域でも受け入れられるようになったのか、澤田さんの持論をお聞きします。

昭和37年5月 「てなもんや三度笠」がスタートする。   東京と大阪では1週間に3時間半という制約があり、あと30分番組がいくつかしか作れない。   その中に「やりくりアパート」があって、「スチャラカ社員」もあり、夕方6時台を何とかしたいという事で藤田まことを夕方にもってゆくことにしました。  日曜日の6時からだったので、時間帯としては難しい時間帯だった。  半年ぐらいは厳しかったが、そのうち東京でも人気になってきた。   あんかけの時次郎 藤田まこと、珍念 白木みのるさん。  小林信彦さんが週刊誌に「てなもんや三度笠」は面白いと評価してくださって嬉しかったです。    映画化の話があり、東京ではどうかという事もあったが作る事になりました。   映画的な映画でした、テレビとは違う。  でも続編を作る事になりました。   朝日放送TVの「てなもんや三度笠」 最も高かった視聴率が東京で42.9%、大阪では64.8% プロレスやドラマを抜いてトップに立ちました。  東京で受けたのは笑いのテンポがおっとりした大阪風ではなく、かなりテンポが速かったこともあると思います。  東京の人がタレント、大阪弁に馴染むというようなこともあったと思います。  それまではタレントは大阪弁とか名古屋弁とか、岡山弁などは使っていませんでした。   全国に馴染む大阪弁にしようとして,テンポを早くしたり苦労しました。  東京からゲストを招いたりもしました。  藤田まことさんの凄いのは一時落ち込んでも這い上がって来るエネルギーの凄さ、強い人だなと思いました。  

昭和34年 毎日放送TV 「番頭はんと丁稚どん」がNHKの「私の秘密」を抜いたと言って話題になった。   もともとはヌード劇場があってそこで茶川一郎がやっていて、それを辞めて映画館にして、スクリーンの前にセットを組んで、映画と映画の間にアトラクションみたいにやろうという事でしたが、キタノ劇場でフランク永井さんのショーがあった時に幕間のコントとして大村崑ちゃんなどがやって、スタジオがないので苦肉の策で始めたわけです。  やはり「やりくりアパート」のメンバーが面白かった。  「やりくりアパート」では目立たなかった芦屋雁之助さんが小番頭の役で一挙にスターになるんです。   大村崑 茶川一郎 佐々十郎 芦屋小雁 芦屋雁之助さんなど出演します。       佐々十郎さんが3人の丁稚をいじめたりする役で、その役は嫌だという事で中途で降りてしまって、代わりに芦屋雁之助さんがやって、当たりました。(突っ込み芸)  「番頭はんと丁稚どん」は東京でもめちゃくちゃ受けました。   立体漫才の突っ込みとぼけ、大阪の場合はそれを集団で見せてゆく。

大阪の笑いを東京にわかってもらうためには、物凄く苦労をしています。  曾我廼家五郎さんの時でもそうですし、少しずつ大阪のテーストがわかってもらってきて、今では大阪も東京もなくなっています。 

昭和54年「花王名人劇場」で漫才の企画が当たって大ブームになります。  ここで大阪弁が浸透したと実感しました。  「必殺シリーズ」は最初はアンモラルでこんなものでいいのかという事がありましたが、そこが大阪テーストなのかなと思います。  いろんな条件の中で強くなってきた番組だと思います。  

昭和の時代には大阪の番組が10年ごとに大きな波を起こしたという説を持っていて、昭和24年「上方演芸会」 昭和34年「番頭はんと丁稚どん」 昭和44年「ヤングおーおー」、昭和54年「花王名人劇場」と大きなパワーを送ってきた。   笑いの供給源は大阪ということでいいと思いますが、東京で受けないとどうしようもないという事があるので、東京で受けるようなことを常に意識しながら大阪の番組を作ったらいいと思います。  「ちりとてちん」(NHK連続テレビ小説NHK大阪放送局制作)、「カーネーション」(NHK連続テレビ小説NHK大阪放送局制作)は凄かったと思います。   新しい大阪の味を発信してくれて非常にうれしいです。