鎌田清衛(福島県大熊町) ・なかったことにはさせない~福島・原発事故で消えかける戦争の遺跡~
福島県大熊町は放射線の影響で今も広い範囲が帰還困難区域に指定され、自由に立ち入ることができません。 こうした中、町に残された震災遺跡をフロッタージュという手法で記録しているのが大熊町の鎌田清衛さん79歳です。
震災前は果樹園を経営していました。 事故を起こした福島第一原子力発電所から3.4kmのところでした。 現在は立ち入りできないことになっています。 平成8年に発足した故郷塾があって、そこの会員として入っていました。 故郷のことについて勉強していて、十数年経ったら震災が起きました。
フロッタージュ(frottage)はフランス語で、「frotter(こする)」に由来する。 紙に鉛筆でこすって写し出すような事。 最初にフロッタージュしたのは中間貯蔵施設の無くなるであろうといわれるもの、集会所の看板とか、橋の銘板、記念碑などです。 県立博物館の行事のなかで、震災後町に入りたいがわからないから案内してほしいという事で、入ったのが一番最初のフロッタージュに会うきっかけでした。 被爆したコンクリート、木などをフロッタージュしたいという事でした。 拓本にしようとすると1枚仕上げるのに4,5時間かかってしまいます。 当時は2,3時間で被爆量が多いため立ち去らなければならなかった。(被爆後3年) フロッタージュだと大体1時間に1枚できる。 始めてから5年経ちました。 なんでこんなことをやらなければいけないのか、やりながら考える事がありました。 中間貯蔵施設に残されているものを写真では撮っているかもしれないが、実物のイメージは残せない、そういったものをフロッタージュしていきました。
横2m縦1mぐらいの模造紙にフロッタージュしたものがあります。 現物は持ってこられないので、これはコピーです。 「いわき飛行場跡記念碑」 原発の前は飛行場で特攻隊の隊員養成所だったと聞いていました。 原発の南に展望台があり、その近くの駐車場にありました。 杉本正衛さんが発起人となって昭和63年8月15日に建立しました。 建立の経過、国家の至上命令により進められたことなどが碑には記載されている。 原発の前が特攻隊の隊員養成所だったという事を知っている人はほとんどいなくなってきたと思います。 かん口令で口止めされた居たようです。 知ってほしいと思いますが、それはたったこの一枚だけです。 貴重ではありますが、恐ろしい。(おぞましいものがあったという事)
フロッタージュするために東電に申請しました。 2,3か月してようやく入れるようになりました。 我々2人に対して東電の社員は6人ぐらい付きました。 高線量用の防具服、靴などを履いていきました。 (6.3マイクロシーベルトとそれほどは高くなかったが) 作業は自分たちでやりたかったが、指示だけするように言われました。 その後もう一度自分たちでやりたかったが、なしのつぶてでした。
山並神社が原発の近くにありますが、大震災で潰れてしまいました。 その神社に1枚の行事、寄付者の名前を書いた板があります。 30×120cmで「民主憲法発布記念 昭和21年12月21日・・・」 平和憲法が出来たことの慶祝の物だったんです。 それを何とか残しておこうと思ったら潰れてしまっていて、解体されていないのでその時には出してもらいたいと思っています。 特攻隊の隊員養成所だった飛行場と地元の人は複雑な思いがあったと思います。 人の心は平和を望んでいるという事だと思います。 何とか記録として残しておきたいと思います。
どんどん風化してゆくので、残せるものがあれば残しておいて、先人たちの足跡を時には振り返ってみてもらえればいいんじゃないかと思います。 新生大熊の人たちが、人がいなくなった元凶がこれだったよという事を示唆しててくれるのが、これしかないかなと思います。 大熊町に保管が出来る様な状況になれば、町にゆだねたいと思っています。