新田佳浩(パラスキーヤー) ・【スポーツ明日への伝言】レジェンドが目指す新たな頂点
来年3月には冬のパラリンピックが中国の北京で行われます。 この大会の出場を果たせば1998年の長野大会から7大会連続のパラリンピック出場になるのが、傷害者ノルディックスキーの新田佳浩さんです。 新田さんは3歳の時にコンバインに巻き込まれる事故に遭って左腕の肘から先の部分を失います。 しかし4歳からスキーを始め、17歳で長野パラリンピックのクロスカントリー競技に初めて出場し、以来前回の2018年のピョンチャン大会まで合わせて3つの金メダルと銀と銅のメダルを一つずつ獲得しています。 半年後に迫ったパラリンピック北京大会に向けて調整を続けている新田さんに伺いました。
東京パラリンピックでマラソンで走る土田さんの姿を見て、年齢を重ねてもチャレンジする事を続ければ、必ずチャンスは出てくると思いましたし、僕自身もそういった年齢になった時に非常にスポーツの可能性であったり、道具と肉体の進歩といったところの楽しさと難しさを凄く感じました。 土田さんは45,6歳だと思います。 ランニングは時間があればするようにしています。 ニックネームは『レジェンド』と呼ばれるようになりました。
僕の両親が共働きをしていて、祖父母が稲刈りをしているときに、転倒した時にコンバインに手を突っ込んでしまって、祖父に抱かれて救急車を呼んだんですが、次に気が付いた時にはベッドの上で、母親がいましたが、父親からは「怪我をしたのは自分のせいで、決しておじいちゃんやおばあちゃんを恨んでは駄目だよ」と言われたのは印象的でした。 将来大人になった時に何でもできるような生活をさせてあげないと、この子は不孝になると家族は思ったようで、いろんなことをチャレンジする中で、岡山にはスキー場があって4歳でスキーを始めクロスカントリーも始めるようになりました。 一番最初はストックを股の間に挟んで滑りなさいというのが父親が教えてくれたスキーの技術の一つでした。 クロスカントリーも始めるようになったのは小学校3年生の時でした。 父親が地元のスキークラブにいるときに、小学校の先生がクロスカントリーをやっていて、それで始める事になりました。
中学2年生の時に岐阜県で全国中学生スキー大会があり、岡山県代表として出場した時に、荒井秀樹さんの知り合いでスタートの役員をしている人がいて、片腕の人が参加しているという事を荒井監督に話したそうです。 長野パラリンピックが3年後にあるけど参加してみないかという事で、3年生の3月にスカウトされたのが、パラリンピックとの出会いです。 20年以上前のパラリンピックは障害を持った可哀そうな人がやっている大会だよね、という風な認識しかなかったので、両親も積極的に応援してくれるわけではありませんでした。 いつか祖父母に僕が頑張っている姿を金メダルという形で返してあげたいという思いがあって、パラリンピックを長く続けられているという風に思います。 多分パラリンピックが無かったら、事故のことを話すことはタブーとされて、或る意味、パラリンピックが家族の結束力を固めてくれた要因なのかなと思います。
祖母が杉の木の下に腕を埋めたという事を20年ぐらい経って僕に語ってくれました。 木がまっすぐ育つのと僕自身の成長を重ね合わせて、無事にまっすぐ育ってくれた事が嬉しかったと言ってくれたのが、僕の中では印象的でした。
クロスカントリーでまず一番は、自然を感じられること、寒い中で太陽の温かさを感じるとか、風が吹いている中で自分はこの角度が好きだなとか、新たな発見が出来ることを継続して、その環境を楽しむことが出来るというのが、クロスカントリースキーの魅力だなあと思います。
長野パラリンピックでは17歳の高校生でした。 日の丸を胸につけて、いろいろな人に支えられてこの舞台に立てるんだという喜びを感じました。 自分も表彰台に立ちたいと思ったのが長野でした。 2002年ソルトレイクシティー大会では大学に進んでいて、銅メダルを取れました。 ドイツのトーマス選手がトップで、僕は実は4位でしたが、ドーピングで繰り上げの銅メダルだったので、複雑な思いではありました。
2006年トリノ大会では転倒がありました。 僕はストック一本でやるので、コースによっては苦手なコースもあり平らなトリノのコースは苦手でした。 平地で2本のストックを使う選手のほうが圧倒的に早くて、対策をとってトレーニングをしてきたが、現地で選手を見るとそれ以上のことが必要だと痛感しました。 少しでも早くという思いがあり、普段やらないターンをしたり、焦りが出て転倒してしまいました。 同じ練習では駄目だと思って、翌年から会社を変えて、環境、トレーニングの考え方など変えていきました。
2010年バンクーバー大会、金メダルをとることができる。 2007年から本格的にウエイトトレーニングを行って、2008年8月に結婚して、2009年の12月に祖母が亡くなりました。 祖父も落ち込んでいて、3か月後にバンクバーがあるので、そこでメダルを取って祖父にも頑張ってもらいたいという思いを伝えたいと、金メダルを2つ取れたことはうれしかったです。 地元の報告会で、祖父が「4年後も生きるからそれまでしっかりとトレーニングをやるように頑張れ。」といったのが印象的でした。
2014年ソチ大会 その間に祖父が他界してしまいました。 モチベーションが下がる集中しないなかで長男、次男が生まれ、妻から中途半端な気持ちではなくやるんだったら応援するけれども、中途半端な気持ちではやってほしくないと言われて、直前の1年では自分自身頑張ったなと思います。 33歳を迎えてソチ大会から帰って来た時に、3歳の長男が手作りの金メダルを用意してくれて、「お父さん 頑張ったね」と言って渡してくれた時に、自分が頑張っている姿を記憶があるうちは現役を続けようと思ったのが、ソチの思い出です。
2018年ピヨンチャン大会では37歳 、再度金メダルをとる。 3.3kmを3周するコースで、スタートして100mぐらいのところで転倒してしまいました。 2周目までは4番で、家族の声援が聞こえて、逆転して20秒差ぐらいで金メダルをとることが出来ました。 自分のすべてを出し切れた会心の滑りだったと思います。
去年の8月に登山でトレーニングをやっているときに足首を捻挫してしまって、完璧には治っていない状況ではありますが、今まで以上に強い自分になっていたいと思いますし、いろいろなアプローチもあるのでトレーングを続けています。 メンタルのコントロールも重要だと思います。 毎日がチャレンジですし、それを継続することと、どうやったら憧れの方向に持っていけるかという事のアプローチを続けることがスポーツの良さであり、心と体を健康にしてくれるのかなと思います。 若い人たちに対しては、失敗しても恐れない心があれば、必ず昨日の自分よりも今日のほうがよくなっていると思いますし、明日のほうがもっと良くなっていると信じて生活してもらえればいいかなと思います。