2019年12月16日月曜日

伊藤多喜雄(民謡歌手)          ・【にっぽんの音】

伊藤多喜雄(民謡歌手)        ・【にっぽんの音】
進行役 能楽師狂言方 大藏基誠
全国に民謡は何万とあると思いますが、最近はどんどん減ってきています。
歌う人がいなくなってきたことと、第一次産業が無くなってきた事だと思います。
歌う機会も無くなってきてしまった。
基本的には民謡は労働のために歌っていました。
お座敷で歌うと部屋が小さくなっていたりするので、部屋の広さによって声の出し方が違うので、形を変えて聴かせるという作法をとっています。
祝詞をあげる、神主さんの代わりにやっていたりして、盆踊りも民謡になっています。

1950年(昭和25年)、北海道苫小牧市出身、現在69歳。
ニシン業を営む家で生まれ12人兄弟の末っ子。
当時電気が来ていませんでした。
ラジオ,TVなど娯楽が無くて、寝るのが早くて親の娯楽のために生まれてきたようなものです。(笑い)
小学校3年の頃から新聞配達などをする。
一番上の姉さんとは38ぐらい離れています。
姉さんの子どもとは一つ違いで姉さんのおっぱいで育ちました。
中学の頃にはニシンはあまりとれずにイワシが取れていましたが、父からはこれがニシンだと嘘を教えられていました。(笑い)
重い網を上げる時、櫓をこぐときなどに父が自分を励ましながら掛け声みたいに歌っていました。
「網起こし音頭」を歌っていました。
腹の底から声を出す太い声を出すことが大事です。
浜では三味線の人が「ハッ」掛け声を出すわけではなくて、歌いだしも勝手に歌うし、自分の気分によって気分の悪い時、いい時によって勝手に歌うわけで、東京に来たら全然合わなかった。

東京には集団就職で16歳(1966年)できました。
地元では音楽を聴くとか映画を観るという事はなかったです。
父親からは歌は趣味でやれと、お金を稼ぐために仕事をしろと言われていました。
12歳で北海道の民謡大会で優勝しました。
東京で月謝を払って民謡の先生のところに行きましたが、先生より北海道の近所の人のじじばばの方が上手いぐらいの人でした。(笑い)
北海道では三味線に合わせてやったことがなかったが、周りから歌えという事で歌う機会があり歌ったら周りがシーンとなってしまいました。
感情を出したいときにコブシが回ってくるわけで、自分もそういう歌を歌っていて、全然別世界の歌を歌っているわけです。
節回しは働いているときの間なので、そこに節が付いてくる、感情を出したいときにコブシが入ってくるので、そういうことを父親がやっているので、自分もそういう感じで歌うので全然別世界の歌を歌うわけです、子どもなんだけれど50,60代の歌を歌っていることになるんです。
とんでもない子が来たという事になり、月謝も払わないでいいという事になりました。
電気もないところで育ってラジオ,TVもなく蓄音機などもなくて、先輩の声、口ぶりなどを盗み見て歌は覚えていきました。
コピーだからその先輩たちの前では歌えなくて、別な歌を歌わなければいけなかったのでその分、歌の数は増えていきました。

*「TAKIOソーラン」  歌 伊藤多喜雄
 沖揚げ音頭の「間」です。
 労働に入った場合には「ソーラン」を10回歌えばいいというわけではなくて、10回の時もあれば20回も繰り返すこともあるわけです。
風の強さ、波の大きさ、魚の量により重さが違うと時間を掛けて網を引っ張らないといけないという事です。
陸に上がった男衆は気分よく酒の力を借りて歌うわけです。
楽器はベース、和太鼓、ドラム、尺八、三味線が入っています。
ベースなど低音の音が欲しかったので、土を踏む感じ、網を引っ張る時の感じ、櫓を押す感じが低音の音なので気持ちが入り易かった。
太鼓の音だけで歌ったりもします。
必ず僕の船の歌も音頭をとる船頭さんがいて、この人のリズムが悪かったら駄目で、一日何時間も何十回も歌うので、同じ歌詞ではだめなんです。
音頭取り専門の人がいて、「波声船頭」と言われます。

*「牛深ハイヤ節(うしぶかハイヤぶし)」 歌 伊藤多喜雄
  熊本の天草のものですが、激しいリズムと軽やかさは北海道にはないものです。
 ヨイサ、ヨイサの掛け合いが見事に活気を作っています。
 北前船によって歌、芸能が全国に広がってゆくわけです。
 南の方はテンポはいいが細かいコブシはなくて、北の方に行くとコブシを使って表現 する民謡がおおいです。
コブシを使って声を張り上げてお金をもらう芸人が北の方にいるんです。
土地土地で必要とされた歌に変化してゆく。

日本の音とは、「ハー」(民謡の掛け声)です、これで土地の匂いと味、なまりがはいって節まわしが回るという。

*「俵積み唄」     歌 伊藤多喜雄
おめでたい歌で 正月に今年一年間家内安全、五穀豊穣、大漁祈願をして、一軒一軒俵を担いで踊って見せるという歌です。