2019年12月24日火曜日

大橋洋平(医師)             ・患者風を吹かせて ~緩和ケア医ががんになって

大橋洋平(医師)         ・患者風を吹かせて ~緩和ケア医ががんになって
大橋さんは1963年三重県生まれ、三重大学医学部を卒業後、総合病院に内科医として勤務していましたが、終末期医療に関心を持ち2003年大阪の淀川キリスト教病院でホスピス研修を受けました。
まだ緩和ケアという言葉が広まる前で、終末期の心と体を支える総合的な医療の筆頭がホスピスだったのです。
その後現在も非常勤で勤める愛知県の病院で緩和ケア医として働き始めました。
医師生活30周年の2018年、去年の6月にご自身のがんが見つかって手術、抗がん剤治療を続けながら仕事を続ける一方、新聞への投稿をきっかけに講演や執筆を通してご自身の経験を発信しています。

現在はいい時もあれば悪い時もあり波があります。
抗がん剤治療中で副作用もあるが、全体的に見ると外出もできるし、自分の中ではいい方だと思っています。
消化管、胃の中から大量に出血をして、下血、真っ黒い便が出たのが最初です。
午前3時ごろトイレにかけこむと真っ黒いものが出て、部屋に戻って間もなく2回目の下血がでて、間違いなく出血であると判断して、胃がんではないかと腹をくくりました。
がんの告知をされましたが、冷静には聞けました。
腫瘍はかなり大きかったです、10cmぐらいあり吃驚しました。
悪性度は5ぐらいならばいいなあと思っていましたが、181あり、これを聞いた時にも一桁違うのではないかと吃驚しました。
飲み薬の抗がん剤の治療が始まりましたが苦しかったです。
手がしびれるとか、食べられないとか、味覚がやられるとかは患者さんから聞いてはいましたが、半信半疑のところもありました。
自分が始めると、食欲がでなくて、吐き気があり、消化液が逆流してのど焼けなどがありまして、まっすぐな姿勢で寝られませんでした。

大学を卒業をして内科医を10年余りやってた時に、消化器系の内科の患者さんにかかわっていました。
胃がん、肝臓がんなど外科手術をしたりして、治療が難しくなると内科で見ていたことが多かったんです。
終末期の人もいて、20年前にはがんという事を知らされずにいた人達がいました。
当人は段々身体が衰えてくるのが判り、腫物に触るようにして時が過ぎて行き、いつか患者さんとのお別れが来る。
或るとき、ふっとあの方々ががんと知っていたら、また違った生き方もあったかもしれないと思いました。
がんの告知さえも、その技術、経験、知識も持ち合わせがなく引き下がっていました。
終末期の患者さんにかかわるような医者はまだ当時いなくて、そういうところにかかわっていけたらいいなあと思い、ホスピス緩和ケア医を目指しました。

病院を辞めて、経済的にも厳しさがありました。
ホスピスを長年やっている病院で働けたら良いなあと思っていたら、淀川キリスト教病院で1年間研修させてもらえるというご縁がありました。(40歳ぐらいの時)
自分の大阪での生活、家族を養うとなると多少の給料はもらえましたが、難しい状況ではありました。
妻も看護師なのでホスピスに関心があり、私よりも先に知識とか研修とかも受けに行っていましたので、導いてくれたのかもしれないです。
愛知県の緩和ケア病棟では平日の夜間、休日も緩和ケアの医者が応対する体制になっていて、夜間、休日は当番制でした。
拘束されるところもあり常勤を辞めて非常勤にさせてもらいました。
病気をしてからも私の中では仕事に復帰しやすかったなというのがあります。

患者風を吹かせる・・・その方が気楽に生きられると思います。
患者ではない人たちから比べると弱い立場だと思います。
自分が患者であることをオープンにして大げさに言うぐらいの方が楽に生きれると思って、周りにもっと言いたいことを言って、場合によっては患者だからもっと気遣って、という様にした方がいいと思って私は言っています。
手術をして退院したときには食べられなくて、妻が茶碗に盛って食べさせようと持ってくるんですが、「そんなもの持ってくるな」と声を荒げたこともあります。
がんは苦しいなあと弱音も出ます。
手術の痕が30cmぐらいあり、その痛み、それとあくび、しゃっくりでも痛いし、くしゃみをすると激痛が走ります。(術後1か月は厳しかった)
術後は管が付くので拘束感がありなかなか動けないが、医師としては動くように指示していましたが、自分のことで気づきました。

「1年を振り返って」という事で募集がありました。
焦らなくていい、食べれなくてもいい、という思いが凄く楽になりました。
そういったことを書いてみようと思いました。
それが新聞に載ることができました。
色々反響がありました。
去年の11月頃までは食べなくてはと思って焦っていましたが、でも半年食べられなくても生きてこられたと思ってどうしていこうかと考えていたら、妻が「しぶとく生きたらいいんじゃないの」とつぶやいたんです。
よろよろよろけても倒れても地面を這ってでも生きていこう、これがしぶとくかなあと思って、一段と気楽に生きられるようになりました。
妻と息子がいなかったら、多分私は生きていないだろうし感謝感謝以外にないです。
多くのがん患者さんはこれからどのぐらい生きられるだろうと気になっていると思います。
データに基づいた余命はあるかもしれないが、自分としての余命は判らない。
判らないんだったら気にしてもしょうがない、だったら一日一日の積み重ねで足してゆく方が自分にはうれしいと思ったんです。
一日目をどこに決めるかですが、肝臓への転移が判った今年の4月8日です、これが私には気持ちが一番へこんだ日になりました。
4月8日を1日目としてやっています。
緩和ケアの医者として、医者を目指している人たちに何か示せたらいいと思って、がんて苦しい、患者さんて苦しいという事と、患者になると医者のことをとっても信頼するという事をつくづく感じています。
頼られるという事はやりがいにもなるし、医者の生き甲斐にもなるだろうし、医者になろうと目指している人たちに知らせたいと思っています。
終末に近い方が「先生は別に話など聞いてもらわなくてもいいんで、病気を治してほしかった。」といったんです。
その通りの部分もあると思いました。
しかし治療が難しくなったり治療ができなくなった時に、治療における技術、知識は役に立たない。
その時に力になるのが医者の言葉がけになってくると思います。
終末期がん患者に対するコミュニケーションはその技術、知識があってそれを学んでほしいと思います。
治療が難しくなってもコミュニケーションなどでいけばいいし、患者さんが救われるとそれに関わる医者ももっと楽にやっていけると思います。
獣医が動物が好きなように、人間のことがメチャクチャ好きだという人たちが医者を志してもらってもいいんじゃないか、将来人間力という事につながるのではないかと思っっています。
よりどころになっているのが好奇心、もう少し言うと出会いかなあと思っています。
新しい出会い、再会、こととの出会い、ものとの出会い、この出会いが支えになっています。
「一期一会」という言葉は好きですが、自分でアレンジして「一期二会」、最初で最後だったら再び会えない可能性があるが、次にまた会いたいという出会いにしたい。