2019年12月20日金曜日

中山千夏(作家)             ・【わが心の人】水の江瀧子

中山千夏(作家)             ・【わが心の人】水の江瀧子
水の江瀧子さんは大正4年北海道小樽市生まれ、13歳の時東京松竹歌劇部、後のSKD松竹歌劇団の第一期生として入団、男装の麗人として注目されました。
退団後は劇団を創設し舞台に出演、戦後は映画のプロデューサーとしても活躍しています。
昭和28年NHKのTV放送開始と同時に始まったジェスチャーでは、女性チームのキャプテンを15年間勤めお茶の間の人気者となりました。
平成21年お亡くなりになりました。(94歳)
中山さんは水の江さんとは親交が深く、評伝『タアキイ -水の江瀧子伝-』を出版しています。

伊東市に住んで15年になります。
40歳の時に初めてダイビングもするようになり1000回以上潜りもう卒業にしました。
水の江瀧子さんが亡くなられて10年になります。
最初にお目にかかったのが中学3年の時に,TVで「現代っ子」という連続ドラマをやっていて、水の江瀧子さんが映画にしたいという事で、3人兄弟の真ん中の役を私がやっていて、私は東宝専属だったもので、水の江瀧子さんは松竹だったので菊田一夫さんに貸してくださいという事で、その時初めて見ました。
TVと同じ役をやる事になりました。
芸能界引退後知り合う事になって、面白い人だなあ、人柄がいいなあと思いました。
功績を書き残しておく方がいいと思い伝記を書きました。
榎本健一さんとか三益愛子さんとか一緒にやっていたのでそういう方たちの雰囲気も知っているので余計興味を持ちました。
語り口も本当にあっさりしていました。

水の江瀧子さんは東京松竹歌劇部(SKD)の第一期生として13歳でデビュー。
最初は全然目立たない子だったそうです。
背の高いので男役で使おうという事で男装の麗人として注目されました。
歌はあまりうまくなくていて嫌だと言っていました。
あまりの人気で忙しくて体調を崩したり、休みもまったくないような状態でした。
一時ノイローゼになってしまった。
それでも一生懸命舞台をやらなければいけないと思っていてその辺がプロだと思いました。
待遇改善を求めて抗議をしたそうで、団交の委員長をしたようです。
簡単に引き受けたが、面白かったと言っていました。
交渉に勝利はしたが、会社側からは2か月間の謹慎処分をされた。

その後少女歌劇団を辞めて新しく自分の劇団をつくる。
当時はやめることは大変で、長谷川一夫さんが独立するときも顔を切られたりして大変でしたが、その同時期でしたので大変だったと思います。
戦争が近くなってきたので慰問団とかもやっていました。
当時松竹の演出部の人(妻子持ち)と恋愛してしまって、その人と一緒に劇団を作って大分あちこち行ったようです。
戦争が大分ひどくなるまで時局に合わせてレビューをやっていました。
昭和30年代に入ると日活のプロデューサーとして活躍します。
良い役者も貸してもらえなくて役者を自分で探そうという事になり、最初フランキー堺さんを見つけて、石原裕次郎の発掘もします。
水の江さんは本が好きで石原慎太郎さんの小説も読んでいたので、この人を使ったら面白いのではないかと交渉に行くが、弟を使ってほしいといわれてカメラテストをやったらものすごくよかったと言っていました。
何十本もつくり才能のあるプロデューサーでした。

TVのジェスチャーとか司会などをしていたが、辞めることになる。
甥が事件で捕まってしまって、水の江さんの子どもだという風なスキャンダルがあったが実は兄の子どもだったが、そういったことがあり世間が嫌になり辞めてしまいました。
そしてその後ジュエリー作家になりました。
大ぶりなデザインで色も華やかで豪華で水の江さんらしい作品でした。
乗馬が好きで若い人に教えたりしていました。
78歳で生前葬をしてにぎやかにやり楽しい生前葬でした。
市川房江さんのような顔になりたいと言っていて、私も市川さんの顔を見ていていい皴の顔でした。
生涯結婚はしなかったが、ちゃんと時々くる姪などと楽しんでいるし、自分が生きているうえで大事な人はその人たちも気持ちよくしていたんです。
私も独身だし水の江さんをなぞっているような感じで他人とは思えないです。
最近は畑をやっていていろいろ発見があり楽しいです。
老いることの発見の日々です。
一番好きなことはものを考えてその考えを書くことです。