入江杏(世田谷一家殺害事件被害者遺族) ・【人権インタビュー】 (1)怒りより、悲しみへの共感を
今から19年前2000年の年末に東京世田谷区に住んでいた、宮澤みきおさん、泰子さん夫妻と長女のにいなちゃん、長男の礼君が何者かに殺害されるという事件が発生しました。
犯人は見つかっておらず未解決です。
入江さんは亡くなった泰子さんの姉です。
被害者遺族として自らの悲しみと向き合ってきた経験から現在は様々な喪失体験に寄り添うグリーフケアという活動を行っています。
悲しみとともに生きそこから生きる力を取り戻してきた入江さんに伺います。
事件後葬式がありましたが、犯人逮捕、事件解決の報告ができると思っていました。
沢山遺留品もあるし手がかりもあるので警察からはすぐ犯人は見つかるという様な話もありました。
いまだに犯人は全く分からないし動機も判りません。
宙ぶらりんの状況が19年経ってしまいました。
家の取り壊しの要請があり、未解決のまま現場が無くなってしまうのかという葛藤の中にあります。
グリーフケアという学びの過程を経て今悲しみの意味を考えて、悲しみの意味を問いかける、いろんな悲しみと向き合いながら、新たな縁を作って行って、今があるという風に感じています。
宮澤家とは2世帯住宅になっていましたが、独立はしていました。
長女のにいなちゃんは8歳、長男の礼君は6歳でした。
子どものことを思うと今でもつらいです。
うちの子とにいなちゃんは一緒に通学していたこともあります。
2000年の12月31日に事件が起きました。
9時半過ぎににいなちゃんと礼君が「おばちゃん、おはよう」といっていつも来るんですが、その日に限って子どもたちが来ませんでした。
母にゆっくり寝かせてあげたらといったんですが、母が起こしてくると言って隣に起こしに行って、15分ぐらいして血相を変えて何か言っているんですが、言葉が耳に入ってこなかったです。
殺されてしまっているみたいという事でした。
全員で行って扉を開けると普段とは明らかに違っていて、本は散らかっている、子どもたちの洋服も乱雑になっていて、ふらふらと中に入っていきそうになったら、普段穏やかな夫が本当に厳しい口調で「見るな、触るな、行くな」と私たちを引き戻しました。
直ぐに110番だといって夫が電話しました。
初めに来たのが救急車でした。
殺人事件に巻き込まれたという事は判らなくて、何か異常なことが起こったと思いました。
その後警察の方が次々に来ていきなり捜査がはじまりました。
電話が鳴って叔父から「いま殺人事件のニュースをやっているが、名前が同じだが違うよね」という電話でした。
TVをつけたら宮澤みきおさんという名前が出ていて、殺害という事をはじめて知りました。
母は「もうすべてを失ってしまった、この事件誰にも知られてはいけないといいました。知られたら私も外を歩けないし、夫も仕事ができなくなるかもしれない、学校で子どもたちがいじめられるかもしれないから、事件とのかかわりは知られないようにしなさい」と、言いました。
母としては犯罪に巻き込まれてしまったこと自体が穢れという風に感じたんでしょうね。
事件後、私が世田谷一家殺害事件の遺族ですと言えるようになるまでには丸6年かかりました。
7回忌の年に絵本を出版することがきっかけになり、世間に語り掛けるという道を選ぶわけですが、それまでは周囲に言わないで秘密をかかえた6年間でした。
動機が全く分からず、警察が言うには一般的に考えられるトラブルを想定してくださいと言われるが全く分からなかったです。
殆どトラブルとは言えないような事例も警察に話すことになり、それに対して警察も裏を取った段階でお姉さんは犯人だと思って申し立てているのではないかと思われてしまったりしました。
かつて作られていった人間関係がぎくしゃくしてきたりしました。
一番つらいことの一つでした。
普段付き合っている人たちがすべて容疑者になってしまうという事になります。
容疑者の血液型がA型で、私たち家族はA型ではありませんでしたが、近所の方が「よかったわね、疑われないで済んで」といわれて、私たちでさえも疑われるんだと思いました。
にいなちゃんが2年生で亡くなったんですが、友達が6年生の卒業の時期になり、十分に中学校生活を楽しんでほしいと思って、喪失から再生に向かうメッセージを何かできたらいいなあと思った時に絵本をにいなちゃんの同級生に届けられたらと思いました。
絵も文も私が書きました。
「どんなに待っても帰ってこなかった。 どんなに待ってももう会えなかった。
どんなに願ってもかなわない願いがあることを僕は知った。
でもね、ある朝空気が冷たくて霜がきらきら光る朝、霜柱を踏んだら足元から聞こえてくるひそやかな音。
ほら耳を澄ましてごらん、ミシカ、ミシカって僕を呼ぶ声がする。
にいなちゃんと礼ちゃんが呼んでいる。
僕が霜柱を踏むたびにミシカ、ミシカってささやいている。
いつも一緒にいたんだね。 風にも水にも光にもいつでも一緒にいるんだね。
空にも地にも昼にも夜にも、どんなに遠く離れていても、ずっと繋がっているから。
有り難う、忘れないよ。」
事件が起きるちょっと前一緒に冬の霜を踏んだ時の情景です。
ミシカはにいなちゃんが大事にしていたクマの縫いぐるみの人形です。
出版していろいろな反響がありました。
出版して10年以上たっていますが今でも絵本の感想を頂きます。
表現できない時期があったので表現できてよかった、楽になったという思いがあります。
悲しみにもいろいろあると思いますが、悲しみを横糸にして繋がって行ける場があってもいいと思います。
グリーフケア、悲しみの種で繋がって行ける、それだけ愛情が深かったからそれだけつらいんですね、と語りかける時間にしています。
今年の5月に川崎市登戸でスクールバスを待っていた小学生を次々に襲って多くの人を死傷させ、男の犯人も自らを刺して死亡したという事件がありましたが、インターネットなどでは「死にたいのならば一人で死ね」という言説があふれました。
その時に投稿した内容として
「犯罪により家族を失った私、犯罪を憎む気持ちは人一倍だからこそ、怒りに任せて「死にたいのならば一人で死ね」という言葉はいかなる理由があろうとも暴力も殺人も許されないという理念を裏切ってしまうと感じます。
暴力や憎悪を助長させることなく子どもたちを守ってゆく責任を自覚したいです。」
という事をインターネットに投稿しました。
「死にたいのならば一人で死ね」という言葉を一人歩きさせてはいけないし、犯罪により家族を失った私として聞いてほしいと思いました。
被害者の存在が憎悪か許し、二項対立、バッシングしないと、じゃあ許すんですか、という風な二項対立でとらえられる。
どっちを選ぶというのではなく、折り合いをつけながきちんと選んでいかなくてはいけないのに、最も悲しみを受けた被害者の遺族に対して二項対立の決定権をゆだねる、それを出来たら避けたいと思いました。
川崎の事件に対して「死にたいのならば一人で死ね」というとあたかもすっきりしたような気がするが、実はすっきりしてはいない。
悲しみとともにどう生きてゆくのかというのをしっかり考えてゆく事が、いろんなプロセスを大切にするという事に繋がっていって、個人に悲しみを負わせるのではなくて、個人の悲しみを社会がどう支えてゆくかを考える、社会の潤いのあるまなざしがグリーフケアなんじゃないかなと思う立場から「死にたいのならば一人で死ね」という言葉は乱暴と思って投稿しました。
悲しいことに出会った人に対しては、それぞれ違う事であると思いますが、きちんと耳を傾けることがとても大切だと思います。
途方にくれたり、一緒に悲しんだりする。
妹が或るとき「あなたといると楽しいよね」と言ってくれたんです、一緒にいて一緒に「困ったね」と言って、ただそれだけでよかった。
妹が私にくれた花束だと思っています。