長谷川きよし(シンガーソングライター ) ・孤高のアーティストの半世紀
デビュー50年を迎えた、長谷川さん。
何周年という事は殆どやらないで来ましたが、50周年という事はやっぱりすごいことだなと思いました。
レコードデビューは1969年ですが、その2年前から歌を歌って生きていきたいと思っていましたが、全盲なので、そのころは門戸を閉ざされている状況でした。
鍼灸とか、視覚障碍者の学校の教師になるとかしか、仕事の道はなかった時代です。
歌が大好きだったので歌を歌って生きていけるようになりたいと思っていました。
高校ぐらいで自分で歌を作り始めました。
TVのオーデション番組に出たりしましたが駄目で、シャンソンのコンクールがあるという事で受けて4位になりました。
「銀パリ」でお客さんが少ない時間帯に歌ったのが18歳の時でした。
レストラン、バー、スナックなどで段々歌うようになりました。
あるところからレコードを出さないかという話が来ましたが、売れないと思って断りましたが、結局出すことになりました。
スタッフが「別れのサンバ」がいいという事で1969年7月にシングル盤を出しました。
しかし案の定売れませんでした。
年末に深夜放送で「別れのサンバ」がよくかかるという事で、そのころからレコードが売れるようになりました。
自分で事務所を作ってやってきました。
家族ができて、今は孫もできました。
*「別れのサンバ」 作詞:長谷川清志、 作曲:長谷川清志 歌:長谷川きよし(清志)
2歳の時に緑内障で失明しました。
子どもとしては好き勝手に生きてるという感じでした。
東京教育大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)に入学しました。
担任の先生は独自の方法で教育をしていくという考え方の人で、基本的に何でも自分でできるようにして生きていかないといけない、という様な教育方針でした。(6年間)
一般の社会の一員として生きていかなければいけないという思いはありました。
12歳でクラシックギターを始めました。
ウクレレもはやり始めていて、やりましたが、自分の歌の伴奏としてギターの方がいいと思ってギターをやるようになりました。
個人レッスンを3年間指導してもらいました。
ポップス、歌謡曲なども好きでしたのでありとあらゆる曲を歌っていました。
20歳でデビューして10年間結婚していましたが、いろんなことがあって離婚することになりました。
詩を書いてくれる人でもあったので、スタッフともうまくいかなくなってきて、続けてもしょうが無いと思って30歳の時に事務所を閉じました。
音楽を離れるしかないと思いました。
マッサージ師の資格は取ってあったので、函館の温泉地でアルバイトを3,4か月やりました。
函館で出会った女性がいて、ふたりで東京に行って音楽でやって行こうという事で、やっているうちに段々仕事が舞い込んでくるようになりました。
このように音楽が続けられるようになったのは、彼女との出会いが本当に大きいと思います。
シャンソンは歌詞が素晴らしいドラマが描かれていて、人生そのものが短い歌の中に歌われていて、メロディーを作る人間としては歌詞が第一なので、歌詞が重要な要素になっています。
自分で訳詞もやってきました。
コンサートでは一番最後に歌う歌として「愛の賛歌」を歌っています。
歌うならピアフ自身が書いた詩なので原詩に忠実な訳詞で歌いたいと思っていて、そういう詩を用意してずーっと歌ってきました。
愛というのは人間の生きてゆく中で一番の根底にある大切にしていかなければいけないものだと思っているので、今は最期に「愛の賛歌」を歌って終わるようにしています。
70歳になると体調に変化してきてますが、何とか歌っていていいなと判断できる限りは歌って生きていきたいと思ってますので、少しでも人々に届くものがあればとは思っています。
*「愛の賛歌」 作詞:ピアフ、作曲:マルグリット・モノー 歌:長谷川きよし
訳詞:長谷川きよし