2019年8月4日日曜日

キートン山田(ナレーター・声優)     ・【時代を創った声】

キートン山田(ナレーター・声優)     ・【時代を創った声】
73歳、キートンさんはアニメ「ちびまる子ちゃん」のナレーションを務めていることで居られてます。
1970年に声優としてデビューされ順風満帆な生活を続けてきましたが、レギュラーの仕事がまったくなくなってしまった時期があったといいます。
収入がままならないキートンさんは家族を抱えながら何を感じ、どのようにに乗りこえたのかなどについて伺います。

アニメ「ゲッターロボ」の2号機、「ゲッター2」のパイロットの神隼人役とか、一休さんでは足利義満役など演じるとともにおおくのドラマや舞台で活躍してきました。
「ちびまる子ちゃん」のナレーションを担当するようになって今年で30年目になります。
生活の一部でそこが週の始まりみたいな感じです。
最初はこんなに続くとは思っていなかったです。
いまだかつてない汚い絵でTVで放送する絵なのかと思いました。
内容が面白いしナレーションが好きになりました。
原作者のさくらさんは6か月続けばいいと思っていたそうです。

北海道三笠市出身、建設会社に就職しサラリーマン生活を始めるが、同時に憧れだった俳優も目指して劇団に入る。
会社の階段に一枚のチラシがありそれが劇団員の募集でした。
段々考えるようになりました。
給料以上のお金を払って劇団に入りました。
2年ちょっとやっていました。
映画の世界には子供のころ憧れていました。
劇団では想像以上に駄目でした。
粘るしかないと思いました。
4年間働いて掛け持ちができないという事になり、会社はやめようと思いました。
深夜スナックでバイトをやろうと思っていきました。
夜9時から朝4時までやって、帰ってきて寝て昼から劇団に行ってという風なことを3年やっていました。(24歳ぐらい)
柴田秀勝さんがマスターと友達で、声優専門のプロダクションを作るんだということを聞きました。
柴田さんと出会っていなければ声優としての私はなかったです、恩人です。
いい先輩に一杯出会いました。

一休さんをやったのが27歳で、そのころからアニメブームがありいろいろ仕事を頂きました。
自分の味なんていうものは自分の人生経験とか体験からしか出てこない。
やはり経験が浅かった。
1970~80年代は多くの作品に出ました。
一休さんの足利義満役は好きなようにやっていました。
アドリブもOKでしたしのびのびとやっていました。
ひょうきんな役ができるんだと思いました。
そのころはめっちゃくちゃ忙しかったです。
ブームというものは後で怖いと気づきました。
或る時ふっと仕事がなくなってきました。
仕事がいやだなと思うようになりました。
そのころは子供が3人いて家も買ってローンを払い始めた頃でした。(36歳のころ)
焦ってそのうち行き詰りました。
親から借りたり、会社から前借したり、内職したり、アルバイトをしたりしました。
死ぬしかないのかと本当に考えました。
食べられないし、一人部屋にいて、子供の笑い声を聞いてふと我に返った瞬間がありました。

もうだめという自分を認めて、そうすると気持ちが楽になりました。
店に出せない野菜が畑に残っていてそれを拾ってきたり、パン屋さんから只でもらったりして、「よし、今日頑張ろう」と声を出して前向きになろうと思いました。
定期的にお金を得るには役者はやめようかなとも思いましたが、再出発しようと思って、名前を変えることにしました。
バスター・キートンから「キートン山田」という事に決めました。
子どもも事務所も反対でしたが、38歳の4月1日から「キートン山田」にしました。
まず自分が変わりました。
半年後にレギュラーが来てナレーションの仕事でした。
生本番みたいなことを7年ぐらいやって、そこでちょっと力が付いたと思いました。
ほかの仕事も徐々に入ってくるようになりました。
試練のおかげだと思います。
そうしてアニメ「ちびまる子ちゃん」と出会うことになりました。
自分の間とかナレーションが面白くなりました。
今の若い人はうまいですが、最後まで残るためには、後悔しないためには自分らしくやるという事だと思います。