2019年8月10日土曜日

高島忠夫(俳優・司会者6/26死去)     ・【人生読本】「わがふるさとわが家族」(1998年1月放送)

高島忠夫(俳優・司会者6/26死去)     ・【人生読本】「わがふるさとわが家族」(1998年1月放送)
1930年昭和5年現在の神戸市東灘区生まれ、昭和26年に映画のニューフェースとして芸能界にデビューしました。
1998年1月10日放送の【人生読本】で放送された「わがふるさとわが家族」をお聞きください。

神戸の御影に住んでいました。
澤之井という泉があり、神功皇后がその水面に御姿を映し出したことが「御影」の名の起こりとされている。
生まれた家は祖父の家で豪邸でした。
父が4男だったので長男が来てどけという事で御影に移って空襲にあって、父がトタン屋根の家を作って住み、子供のころに豪邸とトタン屋根のバラックと両方を知っています。
祖父が貸家を一杯持っていたので、父は月に一回家賃を集めて祖父に渡して生活費をもらていたので、時々競馬場にいって父は遊び人でした。
母は夫が定職を持っていなかったというのがつらかったといいます。
だから僕は夫というものは働かないといけないと思いました。
いい夫だと思っていましたが、妻からは3回離婚しようと思ったといわれましたが、聞いても言いませんでした。

神戸一中は名門校でそこに入ることができました。
小松左京、國弘正雄が同じクラスでした。
神戸一中の5年生で戦争が終わって、新制度になって神戸高校になって、3年生の時に母にギターを買ってもらって(お米と晴れ着との物々交換)、ジャズの方に行きました。
そのうちにドラムに行きました。
ドラムとギターで進駐軍の慰問団のバンドをやっていました。
グレンミラーものを多くやりました。
ハンバーガー、コーラなどに吃驚しました。
ジャズはこんなものがあるのかと取りつかれました。
神戸高校から呼び出しがあり、ジャズをとるのか高校をとるのかといわれて中退して、1年間ジャズをやって関西学院大学の高等部の3年に編入しました。
関西学院大学も中退して映画界に入ることになりました。
新聞で新東宝が第一期の募集をしていました。
井上梅次監督は京都で私は神戸という事で監督にはかわいがられました。

当方には池辺良さん、市川崑監督とかがいて、明るいスマートな都会的な喜劇映画を撮っていました。
それが「坊ちゃんシリーズ」になって行きます。
当時宝塚のオーナーの小林一三さんが季節のミュージカルというのを作って、そこで寿美花代が司会者としていて、淀薫さん、宝田明さんがきて二人でポケットミュージカルをやるという事で番組がありました。
普通は一回きりでしたが、高島忠夫は真面目だからという事で梅田コマ劇場で4週寿美花代とできました。
そこできっかけができ「カルメン」を観に行ったのがデートの最初でした。
寿美花代は「パイナップルの女王」で初めて女性役をやって網タイツの脚線美を披露した場面が話題をさらった。

車の中で、借金はあるかどうか、年収は、両親に送金しているか、彼女は何人いるのかなどを突然聞かれました。
これは婉曲な結婚申し込みだと思って、真面目に答えて、小林一三さんに話をしたら絶対にほかに漏らしたらいけないといわれました。
しかし小林一三さんから漏れてしまいました。
夫婦喧嘩はしたことはありません。
これは一重に私の忍耐だと思っています、二人のですかね。
俳優として僕自身はもう危ないすれすれのところにいるという、何度もそういう時がありましたが、民放のTVから男の俳優でTVの司会をやらないかとの声があり、「土曜ショー」に移りました。
違うタイプの司会をやろうと考えていました。
その後当たって、それからは役者は開店休業になりました。
子どもたちには役者は大変だといっていましたが、気が付いたら子どもたちは役者になっていました。

子どもらに望むのは、晩年死ぬまで幸せでいてほしい、僕はミイラになって生きていて子どもたちが死ぬときに、耳元に口をつけてお前らは芸能界へ両親を見習って入ったけれど、その人生は幸せだったかと聞いて、幸せだったといってころっと死ぬのを見て僕も死にたいと思っています。
阪神大震災では私の住んでいたところで、あんなに仰天したことはないですね。
いとこからは現場に行っても「頑張ってね」とは言わない方がいいといわれました。
どういったらいいのかと尋ねたら、「また来るね」といった方がいいといわれました。
神戸は地震のない所だといっていましたが大変なことになりました。
昔の神戸よりももっと素晴らしい街になってほしい、応援させてもらいたい。
空襲の焼け跡で、近所の人は寄せ合って同じものを食べて、助け合ってないものを都合したりして、あの戦争中の焦土と化した神戸で生き延びてきたときにお互いが優しくなったんじゃないでしょうか、その中の一人が僕だったのかなと思います。
兎に角元気に生きていこうと思います。