2019年8月2日金曜日

島﨑今日子(ジャーナリスト)       ・【わが心の人】森瑤子

島﨑今日子(ジャーナリスト)       ・【わが心の人】森瑤子
森瑤子さんは38歳の時に「情事」でデビュー、新しい女性の生き方が描かれているとたちまち脚光を浴びました。
以来次々と作品を発表し、女性を中心に多くの読者を獲得しましたが、平成5年1993年亡くなられました。
52歳でした。
島﨑さんは森瑤子さんを取り巻く人々を丹念に取材し、「森瑤子の帽子」という一冊にまとめ出版しています。

森瑤子さんは昭和15年静岡県伊東市の生まれ。
生後すぐに中国にわたるが、4歳でまた日本に戻って東京で育ちました。
父親が子どもたちにヴァイオリンを習わすことが夢で、森さんは小学校の時から始めて、東京芸大の専攻に行かれるが、17年間ヴァイオリンを弾いています。
自分の才能がないことが判り断念して、卒業後はコピーライターをやっていて、アイヴァン・ブラッキーさんと出会って恋愛して結婚して3人の娘さんを産んで、主婦であることの鬱屈を強く抱えていて、子供の母夫の妻でしかないのかという事に悶々として、37歳で小説を書いて38歳で「情事」でスバル文学賞をとって、華々しくデビューします。
当時、女の人たちに取って憧れみたいな世界を描いた。
1978年吉行淳之介さんの「夕暮れまで」という中年の男性が女子大生を愛人にするという男性の願望を描いた世界であれば、森さんの描いたのは女の人たちの葛藤、夢、あらゆる女の人たちの気持ちがそこに投影された新しい作品でした。

森瑤子さんは「情事」以降100冊を超える作品をかきますが、自分はこうありたい、こうしたいというような世界を小説に書いてきたといっています。
森瑤子さんはペンネームで本名は伊藤雅代さん。
林瑤子さんは芸大時代にヴァイオリンの優秀な友人がいて、ペンネームを森瑤子という名前にした。
夫との葛藤が多くて、君は第一に娘たちの母親でいてくれ、第二がアイヴァン・ブラッキーの妻でいてくれ、第三が森瑤子でいてくれというんですが、森瑤子は森瑤子でいたいんですよね。
放浪癖を持った自由な人と結婚するのが私には似合っていると決断するわけです。
森瑤子さんは英語は話すことはできたが、英語で完全に意思疎通ができるかというとそうでもない部分があった。
アイヴァン・ブラッキーさんは日本語は一切読めないし話せなかった。
夫婦の齟齬があった上に生活習慣が違っていたところもありました。
夫の働き方、考え方にイラつくこともあった。
森瑤子としての活動がどんどん増えてきて収入面でのギャップも多くなる。
1985年には年収売り上げが1億円ぐらいにはなっていた。
パワーバランスの違いには森瑤子さんは気を使っていた。

森瑤子さんはあがり症で小心でシャイだったので前に出てゆくためには派手な衣装は鎧として必要だったと書いています。
森瑤子が帽子をかぶり始めるのがバブル辺り以降です。
母親が帽子が好きだった。
人気が出るにつれ帽子の鍔が大きくなっていった。
カナダの島を買い、与論島に1億円をかけて別荘を建てた。
気さくで性格のいい人だと与論島の地元の人たちは言っていました。
少々頑張って読者のためにいろんなスタイルをしていたと思います。
自分が家庭を顧みられない申し訳なさをお金で償ったという事はあったんだと思います。
娘さん3人とも聡明で、母に対する批判もそれぞれ持っているが、お母さんのことをよくわかってきて、批判はすることはしても母を否定することは一切しなかった、よく頑張ったと肯定しています。
アイヴァンさんとは夫婦の関係は破綻していたという方も沢山いますし、実際そうだったという面もあるかと思いますが、別れることは選ばなかった。
自分が亡くなるという事は判ったうえで、夫にこうしてほしい、と書いています。
周りからは頼りのない夫といわれますが、私にとっては大事な人ですと書いています。

52歳で亡くなる。
ホスピスに入っても執筆への情熱は衰えることはなかった。
最後まで口述筆記をする。
葬儀もこうしてほしいとプロデュースした。
場所、娘さんたち3人の帽子、服、自身の遺影のトリミング、憧れのヴァイオリニストの林瑤子さんに遣葬を頼む、そこまでやりました。
与論島にお墓を建てるが自分でデザインした。
「森瑤子の帽子」は4年がかりで描き上げました。
新たに取材を始めていますが、誰かを取材し始めると難しいなあと思ってやっています。
しかし段々面白くなってきます。