2019年8月27日火曜日

安藤和津(エッセイスト・タレント)    ・"介護後うつ"から抜け出して

安藤和津(エッセイスト・タレント)    ・"介護後うつ"から抜け出して
東京台東区出身、ニュースキャスターやエッセーイスト、タレントとして活躍されています。
1979年に俳優の奥田瑛二さんと結婚、長女は映画監督の安藤桃子さん、次女は安藤サクラさんという芸能一家です。
或る日安藤さんのお母さん昌子さんに大きな脳腫瘍が見つかり、自宅で介護を続けました。
昌子さんは平成18年に83歳で亡くなりましたが、介護中和津さんが介護うつになり、介護が終わった後にも介護後うつという状態になりました。
その苦しい状態から抜け出るのに13年も掛かったという事です。

ずーっと体も心も疲れ切っていてやっと今、心が元気になると体も元気になるという事を実感しています。
2年前まで苦しんできました。
私の目には真っ黒いものが口から出ていくのが見えたんです。
印象的には白黒TVから急にカラーTVを見るような感じでした。
自分がおかしい状況だとは思っていなかった。
介護うつが終わったと思っていたら、介護後も鬱になっていました。
介護鬱の時にはパタッと料理ができなくなりまして、人との会話もほとんどできなくなり外にも出かけることができなくなりました。
無理やり出かけて遅刻常習犯になり、人と会うのが怖かったです。
買い物に行っても買うものが流れているんです。
何とかいくつか購入して、料理するのに何を作っていいかわからない。
料理の作り方も忘れてしまいました。
文章の組み立てもできない。
コメンテーターができいない状態でした。

2時間おきに痰の吸引をしなければいけないので、睡眠不足がずーっと続いていました。
介護が終わって料理はポチポチできるようにはなりました。
人ともだいぶ会えるようになりました。
しかし、家族たちと会話していても、全員が笑っているが、私はなんで笑っているのかわからなかった。
TVみていても全員が笑ってるが私は笑えなかった。
桜が咲いて綺麗だと周りが言うが、感動が何にもなかった。
家族が変わったんだと自分では思い、自分だけ孤立している状態でした。
それが13年続いてしまいました。
人間にとって心からの感動、喜びを感じられないのは、押さえつけられている状況になっちゃうんだと思います。
年末に掃除をしていました。
TVで漫才をやっていて、介護鬱が抜けてしばらくたったら、抜け落ちていた記憶が全部徐々に繋がってくるんです。
/獅子てんや・瀬戸わんやさんの昔の漫才をやっていました。

パッと笑いがお腹から噴出して、真っ黒な塊が飛び出して行って我に返ったときに、今笑ったよねと思って周りを見渡すしたら、白黒TVから急にカラーTVに変わったように全部が違うんです。
私は鬱だったとその瞬間気が付きました。
二人目の孫が生後半年で、孫の存在は大きかった。
母の介護にやっていた事と孫にやる事はおむつ、食事などの作業は全く同じわけです。
おむつ、離乳食と介護食、など、母の介護は無理やり明るく元気にさせながらの介護だったが、最終的には見送る介護だった。
孫は未来へ命が繋がっている、命が受け継ながれているんだと実感しました。
母がここに生きているんだと思えたこともすごく大きかったです。
母の行動言動がおかしいと思ったのが1998年ごろ、本当にたどってゆくとサクラが生まれた時なんです。

長女を母に預けて入院していましたが、母が長女を連れて病院に来ました。
退院するまで長女の下着の袖口が汚れていくんです。
1週間毎日同じワンピースを着せてきたんです。
母は毎日着替えるタイプでしたが、娘が私の病院食を目の色を変えて食べるんです。
考えてみるとあの時から段々そうなって行っていたんです。
原因が脳腫瘍だと判明するのは、だいぶ後の事でした。
親のおかしな言動を医師に相談しても、知り合いに相談しても、あまり親の悪口を言わない方がいいとたしなめられてしまいました。
いろいろ変な言動があり、どうしたらいいかわからなかった。
本当は母は嘘をついていてごまかしていて、本当は行儀が悪くて、悪態をつく嫌な人間だと思うようになりました。
母のことがどんどん嫌いになって行きました。
家族が母のおかげでどんどん憂鬱になってしまいました。
母が腕を骨折してしまい、病院で診察を受けることになり、病院に脳のMRIができたばっかりだったので先生に絶対に撮ってくださいと言って、海外の仕事に行くことになりました。

帰ってきたら巨大な脳腫瘍ができていましたと言われました。
手術もできないレベルでした。
糖分と油分の代表的なような食生活だったので、和食風に私が手作りでやっているうちにあなたのおかげねと母が初めて褒めてくれました。
認知症と老人性うつ病も発症していて、この状態で家族がそばにいることが珍しいといわれました。
非常に攻撃性の強い認知症でした。
普通は付き合いきれない状況だといわれました。
母のやっていることを全部先生にお話したら、本当によくこれまでご一緒にいられましたねと言ってくださって全部救われたと思いました。
共感してくれる人が必要だと思いました。

仕事関係の友達が家に来ていた時に、母が手におむつを持って下半身すっぽんぽんで現れたときには私は腰を抜かしました。
母がおむつを使用していたことは知らなくて、「これ替えて」といったんです。
次の瞬間床に転がり落ちて私はおんおん泣いていました。
一生乗り越えられないという思い、みんなに愛情をかけていた母が、あーあ親子逆転この瞬間したなと思って切なかったです。
下の世話をすることで家族が良くやってくれました。
母がトイレでお尻が汚物だらけでしたが、血は繋がっていない夫が素手で手が汚れましたがおんぶしてくれました。
介護は育ててもらったお返しをしているだけなんだなと思った時に、凄くスイッチがOFFからONになるんですね、その時に気が楽になりました。
介護は何のためにするか「親に笑顔でさよならを言うためなんですよ」とありましたが、良い言葉だと思います。

自宅でみとることになって、酸素濃度が20ぐらいに下がってきて危なそうだという事で先生も呼びました。
その間天ぷら、中華の話をして聞かせているうちに酸素濃度が30、40と上がってきて、洋食やら屋台のそばまで話をして、酸素濃度が80まで上がって、持ち直して先生もかえってそれからほどなく、息がしていないのに気が付きました。
施設などでも○○さんありがとうと、テープに入れてパチパチとみんなで拍手で送ってあげたら魂が幸せに旅経っていくのではないかと思います。
母をあのように送ってあげてよかったと思います、母は本当に優しい顔をしていました。
介護はどうしても女の人が背負いがちなので、頑張っている奥さんにねぎらいの言葉とか、肩をたたいてあげたりしてもらえればと思います。
どういう人が思い出に残っていく人になるかというと、どれだけの愛情を人にかけたかという事になるかと思います。
そういう思いを持ってこれからも生きていきたいと思います。