山下幸雄(旧満州開拓団 集団自決生存者) ・【戦争・平和インタビュー】(2)ひとり、孤児として生き
86歳、山下さんは兵庫県豊岡市の出身、終戦の前の年の昭和19年11歳の時に家族7人で満州開拓団の一員として満州に渡りました。
同じ集落から満州開拓に渡った人はおよそ500人、日本の敗戦ともに暴徒と化した地元の人に追われながら逃避行を続け、終戦から2日後の8月17日、追い込まれた山下さんたち開拓団員は崖から身を投げて集団自決して298人が亡くなりました。
山下さんはその生存者の一人で家族を失い一人で生きてきました。
旧満州開拓団 集団自決生存者 山下幸雄さんに伺いました。
集団自決から74回目の夏を迎える。
自分でも昨日のように思えます。
国策として満州開拓団が結成され全国から約30万人が渡ったといわれる。
昭和19年3月に満州蘭西県の北安村(黒竜江省(こくりゅうこうしょう)の東北部 旧ソ連との国境の近く)に渡りました。
見渡す限り大平原でした。
豚小屋の方が上等といえるような家でした、電気、ガス、水道もなく不自由極まりないところでした。
コウリャン、アワ、トウモロコシ、大豆、などを作っていました。
冬は風呂に行って帰るときにはタオルが凍ってしまい、夏は40度、50度と、厳しい大変な地域ではありました。
日本が恋しくて仕方なかったが、しかし満州で頑張らなければいけないと思いました。
父は男らしい人、母親は人間は豊かな心を持っていけないといけないとニコニコしていました。
昭和20年5,6月ごろから戦況が悪くなり、満州にも召集令状をかけるという事がありました。
ソ連が入ってくるかもわからないという噂もありました。
8月13日に召集が掛かりました。
逃げていくために18km先の県庁所在地を目指しました。
向かう途中、日本人の馬鹿野郎とか周りから罵声が飛び交いました。
8月15日に日本が負けたという事を知らされました。
地元の軍隊が攻めてくるという事で、元来た道に向かって逃げました。
一般の満人が襲ってきました。
柄の長さ1,5mぐらいで刃渡りが30cmの鎌を持って向かってきました。
命が欲しいのでは無く、服、金が欲しいわけです。
銃もないし土団子を作って応戦しました。
隠れて逃げないといけなくて、声を出したらいけないという事で子供が泣いたら殺せと、年寄りはおんぶをしていたんではお前たちが死んでしまうので放っておけといわれました。
手を合わせて置いてきぼりにして逃げました。
私は12歳で妹は7歳、弟は3歳でした。
父は弟を殺そうとしたが、弟はニコっと笑ったので、母親は耐えきれなくなって、覆いかぶさってこの子を殺すなら私も殺してくれといいました。
そうしたら父も諦めました。
17日の朝を迎えます。(集団自決の日)
へとへとになって開拓地に戻ってきました。
村長が守ってくれるといって食事を頂きました。
もうこれ以上あなたたちを守り切れないといって、出ていくことになりました。
死ぬか、恥をものともせず逃げるかという事になる訳です。
父が17歳の元気な兄になんとか日本に帰ってこのことを知らせてほしいといったんですが、兄も疲れ切っており死にたいという事で、全員死ぬ事にしました。
そう決まったときには、もうこれ以上苦しみたくない、やれやれ有難いと思いました。
満人の手にかかって死にたくない、自分で死にたいと思いました。
死に対する恐怖はなかったです、極限状態でした。
死ぬなら外でという事で、500m先の川に崖があるのでそこにしようという事になりました。
ワーッと鬨の声を上げて服を脱いで放り出したり、お金をばらまいたりして満人が拾っているすきにみんな無事に丘の頂上まで着くことができました。
7時半過ぎに到達して10時に決行しようという事に決まりました。
叔父がお坊さんをしていたので、お説教があり、これから生まれ変わるんだという事で全員が泣きました。
死ぬなら真っ先にという事で9時半ごろから腹を刀で切って血だらけになって飛び込む人がいました。
10時までにはだいぶ飛び込んだと思います。
飛び込むときの声だけでもすごかった、地獄そのものです。
我々家族は崖の一番高いところにいて、兄とは背中合わせにしてゲートルで手足、胴体を父がくくってくれました。
「天皇陛下万歳」といったら力いっぱい押してくれという事で、父親に押してもらいました。
しかしそれほど力いっぱい押したという感じではなかった。
水を吸って、頭の中に真っ黒な物体がいっぱい詰まって割れるのではないかなという感触があって、それからは記憶がありませんでした。
気が付いたら兄とは手が離れていて、兄は白目をむいていて口から泡みたいなものが出ていました。
私は柳の木にしがみついていました。
何回か飛び込んだが浮き上がるし自分では死ねませんでした。
両親を探したが、判らなかった。
なんで確実に二人が死んだのを確認して死ななかったのかと親を恨んだこともありました。
首を切ってもらうしかないと思って指導員のところへ行きました。
馬に乗って満州の警察官が来て、死んではいけないといって、浮き上がってきて体力のある人などを含めて(体力がなく置いてきぼりになった人もいた)助けてもらう事になりました。
途中で置いてきぼりにしたおじいさんあばあさん、川でアップアップして置いてきぼりにした人たちのそのこと思うとつらいんです。
戦争の悲劇がそこにもあるわけです。
298人が集団自決で亡くなり、その後1年間捕虜として過ごすことになりました。
一日におかゆが2杯あるだけで生かさず殺さずというような状況でした。
一日に栄養失調、発疹チブスで多い時には70人が死んだと聞いています。
そこら中シラミだらけでしたが、空腹でそれをつまんでは食べました。
日本に戻ったのが昭和21年10月13日、13歳になっていたが、家族はみんな亡くなってしまいひとりぼっちでした。
日本に戻れてやっと念願がかなったと思いました。
周りの人たちは気の毒すぎてものが言えないという事で、満州のことは話しませんでした。
一人で生きてゆくためには、我慢しなければいけない、笑顔を絶やしたらいけない、楽しそうにふるまう、そのことが一番でした。
母親が言った通り忠実に実行していかないと、人はかわいがってくれないという思いで生活をしていました。
独立したらまず両親、兄弟の墓を建てること、次は家を建てたいと、先のことをいつも思っていました。
過去を悔んだりはしませんでした。
嫌なので開拓団のことは話しませんでした、兎に角忘れることに専念しました。
自分のしてきた経験を存分に若い人たちに知らせて、伝えていきたいと思って40歳ぐらいから講演を行い100回を超えたと思います。
今振り返るとこのことは戦争というものはやってはならないという事で、それがなかったらこんな悲劇はなかった。
死んでしまったら終わり、生きていれば楽しいこと、悲しいことがあるが、それを乗り越えていい方向にいい方向にと思っていって、人様の役に立つような人間になったらいいなと思いますし、生きていればこそすべてがいい方向にむかう、死んだら何にもならない。