渡辺美佐子(女優) ・【舌の記憶~あの時、あの味】
東京都麻布生まれ、俳優座養成所時代に今井正監督の「ひめゆりの塔」で映画デビュー、舞台の代表作は一人芝居「化粧」で、海外公演を含めて648回演じ続けました。
TVドラマも「おしん」や「渡る世間は鬼ばかり」など多彩なドラマに数多く出演されまして、この8月にもNHKの終戦関連ドラマ「マンゴウの樹の下で」に出演するなど実力派の女優として今なお第一線で活躍しています。
そんな渡辺さんがライフワークとして長年にわたって取り組んで来たのが、原爆の朗読劇です。
1985年演出家の木村光一さんに乞われて始めた朗読劇は、12年前からは戦争体験のある女優たちの手で毎年夏に全国各地で続けてきました。
原爆の犠牲となった子供たちや母親、家族の手記を淡々と朗読する舞台は深い悲しみが伝わって会場では涙する人が多く見られます。
戦後74年の今年、おりしも今日の午後埼玉県深谷市の公演でその幕を閉じることになりました。
今日は34年間にわたる思い、戦中戦後の日々、ご自身の舌の記憶やドラマ「不ぞろいの林檎たち」などで知られます、名プロデューサー夫の大山勝美さんの闘病生活を支えた手料理になどについて伺いました。
1985年から続けてきた朗読劇、毎年7月、8月は原爆の朗読劇を持って日本中を回るという事を決めてあったものですから、ほかの仕事をしないで日本中をめぐって歩いていました。
当たり前の生活になっていましたが、今年で終わりになると思うと・・・、でも34年間やるだけのことをやったなあという思いでいますが、歳には勝てないですね。
初めて稽古をした時には泣いて泣いて稽古になりませんでした。
伝える人が泣いてどうするんだと演出家の木村光一さんに叱られました。
最初の旅が広島、長崎でした。
今から35年前でしたので被爆された人もいましたし、ご家族を亡くされた方も大勢いるので、その人たちの前で私たちはいったい何をしようとしているんだろうかと、辛い思い出をもう一回思い起こさせてしまって、緊張して前の晩は眠れませんでした。
朗読が終わった後に劇場に来た被爆者が、『今までは人に語らなかった、就職、結婚などに対して被爆者であるという事がハンディーになったりしてしゃべらなかった人が、やっぱり経験したことを話さなければいけないんだという風に吹っ切れた」という話を聞いて、凄くうれしかったです。
仲間の18人がみんな戦争経験者なんですね。
その思いから朗読を続けてこられた。
全く戦争を知らない若い方たちを入れてやるという事は、全然感性が違うと思うんです。
1980年の時にTVのご対面番組に出ましたが、会ってみたい人に疎開したのかなあと気になっていた人がいました。
番組の人に話をして、当日を楽しみにしていました。
水永龍男君という人でしたが、登場したのは彼の御両親でした。
当時両親は満州にいて彼は東京の中学にいましたが、東京に空襲があり祖母の広島に疎開させました。
8月6日に勤労奉仕で仕事をしていて、原爆の直下にいたようです。
「遺体、遺品、目撃者もいないのであの子が死んだという事を証拠付けるものがなにもないので、いまだにお墓がつくれないんです」と、淡々とお話になりました。
どうしているのかなあという思いだけでご両親に又悲しい思いをさせてしまって、本当に申し訳無かったですといいましたら、龍男は12歳でいなくなったんだけれども、親としては転勤が多くあの子には友達が少なかった。
あの子が生きていることを知っているのは親戚と家族ぐらいしかいないんです。
あなたのようにあの子のことを35年間忘れないで、探してくれた方がいたという事はありがとうございますと、逆にお礼を言われました。
その時は泣けなかったです、それよりもなんか強いものでガツンと胸を打たれた様な感じでした。
塊のようなものがずーっとあって、どうしていいかわからないときに、朗読劇の話がありました。
資料の中に広島二中一年生322人全滅の記録「石踏み」という本がありました。
子どもを亡くされたお母さんたちの手記などの本でした。
もしかしてと思って巻末を見たら322人の名前の中に水永龍男という名前がありました。
その思いが私を35年間続けさせたんだと思っています。
世の中、戦争の記憶はどんどんなくなりますね。
朗読劇を聞いてくれて、普通の生活が凄く大事なんだという事を思いました、と言ってくれると凄くうれしいです。
学校、教科書などで戦争の現状を伝えて、戦争だけは嫌だという風に子どもたちを育ててほしいです。
小学校卒業して戦争が終わって、急に8月15日を境に世の中ががらっと変わってしまって、アメリカ映画、ジャズが入ってきて、すべてがひっくり返って、正義って何なんだという事が真逆になってしまいました。
日本万歳と言っていたのがころっと変わって行って、自分はなんなのと思いました。
戦争という風が吹いたり、逆に民主主義という風が吹き始めて、そういう風は本当に人間を変えてしまうし怖いなあと、変な風が吹きませんようにという思いでいっぱいです。
私は5人兄弟の末っ子です。
東京大空襲の時には東京にいました。
母と姉と私は長野の篠ノ井に疎開に行きましたが、食料をもらえるような時代ではなかったです。
父から送られてきたたばこと交換して3,4日リンゴばかり食べていた時もありました。
或る時カレーの匂いがして、嬉しくてその鍋を私が持っていくといって土間に鍋をひっくり返してしまいました。
母が「大丈夫?火傷しなかった?」と言って、後で思うと、もし私だったらそんな風には応対できなかっただろうと思います。
大事に大事に持ってきたカレーの元で作ったカレーだったのに、よく怒らなかったと思います。
俳優座養成所に入って、今井正監督が「ひめゆりの塔」を撮るので女学生の役を10人ぐらい選ばれました。
沖縄の事をいろいろ勉強して、大変なことがいろいろあったことを知りました。
食料もなく逃げてゆく女学生の役ですが、なんか気に食わなくて何だろうと思ったら、そんな状況の女学生がぽちゃぽちゃと太めのはずはないと思いました。
1週間断食しようと思い水分以外食べずに1週間断食しました。
1週間ではやせるものではないが、目は引っ込んできます。
戦争は愚かなことだなあと思いますし、何千年と戦争をやってきた人間は愚かだなあと思います。
「化粧」一人芝居 「面白い我に仕事あれ、それをし遂げて死なんと思う」(石川啄木)
(「こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ」 が正しいか)
ああこれだなあと思いました。
井上ひさしさんの作品でしたがどうするのという思いでした。
したことがない事ばっかりでいろんなことを教わって、素晴らしい私の宝物です。
人間の愚かさがあるからこそ可愛い、愛おしいというところが参ってしまいます。
素材を生かす、バランスのいい料理をしています。
大山はすごく喜んでくれました。
食べることってやっぱりすごく大事ですよね、楽しみのうちの大きな部分を占めていますし。
家族と一緒に暮らして、ちゃんと夜は空襲警報が鳴らないで、自分の好きなだけ眠れて、普通においしいものを食べて、友達と遊んで学ぶことは学んで、普通の生活が本当に大事で、それを奪うのが戦争だという事を若い人に知ってほしい。
世界をちゃんといつも見ていて何がおかしいのか何がおかしくないのか、しっかり目を見ひらいて、自分は何をしたいのか、ちゃんと持っていたいなあと思うし、それを若い人に持っていてほしいと思います。