箱石シツイ(理容師) ・鋏ちびても腕おとろえず
102歳、戦争でご主人を亡くされ女手一つでお子さんを育て店を切り盛りしてきました。
長年一人暮らしを続けてきましたが、今年からは息子さん家族たちとも同居され、ひ孫さんたちも遊びに来てにぎやかになりました。
最近は長年のお得意さんたちも施設に入ったり亡くなったりと寂しくなったそうですが、評判を聞きつけて遠く県外からも訪れるお客さんも増えてきたといいます。
80年を越える理容師としての人生にはどんな苦労や喜びがあったのか、伺いました。
皆さん施設に入ったり亡くなったりする人が多くなりました。
店は昭和28年からなので、66年になります。
ハサミも自分で砥石で研ぐので減ってしまって短くなってきています。
80何年になります、19歳から使っているハサミです。
「しずえ」でしたが、訛っていて、戸籍を見たら「シツイ」になっていました。
兄弟は女が4人、男が一人で4番目の女性でした。
両親が手に職を持った方がいいという事で、親戚が床屋だったので親戚の家に行きました。
弟子が3人いて、みんなが遊んでいるときに、追いつけ追い越せという事で練習をしました。
理容師の免許を昭和11年6月に取りました。
厚生省ではなく警視庁が当時は免許を発行しました。
主人も理容師でした。
自分で店を持とうと思って貯金をしていました。
あってほしいという人がいて3人目で、真面目そうだったので承諾して結婚して、1年目で子どもが生まれました。
昭和19年7月、景気のいい時に召集令状が来ました。
戦争の末期だったので、見送りの人はたくさん来ましたが、万歳などはしませんでした。
戦地は満州でした。
手紙は2回きましたが、南京虫に刺されて痒くて夜も眠れない、君も子供を大事にして頑張ってくれ、貯金のお金を全部使ってもいいから子供を大事にしてほしいという事でした。
空襲があり早く疎開するようにと父が言って、疎開しました。
新宿の店は空襲でやられました。(東京大空襲)
昭和28年まで足音を聞くと夫ではないかと思いながら夫を待っていました。
昭和28年に戦死の通知、遺骨ではなく板の入った箱が来ました。
子どもたちと3人だけになりどうしたらいいか途方にくれました。
「猫いらず」を用意して、お父さんのところに行こうねと言ったら、死んだらおしまい生きていれば必ずいいことがあるといわれて、思いとどまって頑張ろうという事で頑張りました。
理容店を開いて、腕がいいという評判がたって、息子も小学校の4年生でしたがご飯を作ってくれたりして手伝ってくれました。
お客さんにタオルでひげを蒸している間に立ったまま、よく卵をかけてさっと噛まずに食べていました。
息子が協力してくれたおかげで店を切り盛りしていくことができました。
店は栃木県那須郡那珂川町で茨城県の境に近い所でしたが、茨城県のほかに福島県からもお客さんが来ました。
お客さんの子どもの行事の時など母親の和服の着付けも無料でしました。
リーゼントが得意でしたので、相当お客さんが来ました。
慎太郎刈が一番得意でした。
一人暮らしになり、仏壇の夫に向かって「今日は一日守ってくださってありがとうございました。
また明日も頑張りますからお願いします。」と毎晩お礼を言います。
息子からこっちに来れば、という話もありましたが、友達もいなくなってしまうので、行くのをためらっていました。
或る時、倒れてろっ骨を2本折ってしまい、2週間ぐらい入院しました。
先生、看護師さんがみんないいかたで楽しかったです。
お客さんたちはみんな待っていて嬉しい言葉を頂きました。
健康のために自分で考えた体操を朝晩やっています。
食事は青ものの菜、人参、ヨーグルト、牛乳、食パンを食べます。
ひ孫(息子の子どもの子ども)も来てくれます。
息子に髪を切ってもらって、息子は私が切ってあげます。
11月10日に103歳になります。
できる限りこの仕事をやろうと思っています。