高橋竹山(津軽三味線奏者 二代目) ・魂の演奏を受け継いで
昭和30年東京生まれ、10歳で三味線を始めて昭和48年初代高橋竹山に師事し、25年間初代竹山とともに国内外で舞台に立ちました。
平成9年二代目高橋竹山を襲名し、それから20年初代の音色を引き継ぎながら海外公演や様々なジャンルの音楽家と積極的に共演して、津軽三味線の世界を広めようと活動しています。
東京江戸川区の生まれで寿司屋をやっていました。
末っ子でした。
民謡浪曲落語などが何時も流れていました。
家中みんなで近所の師匠に週1回来てもらって三味線を習っていました。
中学の時に三味線と歌で仕事としてやっていきたいと思っていまして、17歳のときにレコード店に入って、邦楽の方を見ていたら高橋竹山の一枚のレコードがでてきて買ってきて、聞いた瞬間にあっと思い凄い衝撃を受けました。
何を弾いても音色が美しい、甘い、柔らかい、その中にも力強さがあり、三味線の持っている限界までのいい音を出しきる奏法ですね。
今まで聞いたことのない三味線の音色ですぐ習いたいと思って手紙、電話をしましたがことごとく断られました。
父が遊びに行くと言えば会ってくれるのではないかと言うので、17歳、12月のなかばごろに青森に行き、会ってくれました。
緊張しましたが、師匠は仏像みたいに見えました。
明日帰る前に歌ってみてはといわれて鰺ヶ沢甚句の歌を歌ったら、「来てもいいかな」と言ってくれました。
内弟子になる。
師匠の家にはお客がたくさん来て酒盛りになり、そこで民謡、三味線をやったりしました。
津軽弁が判るまで3,4年かかりました。
最初から弾き語りでやれるように教えてもらいました。
「竹与」と云う名前を与えられました。
最初から師匠と舞台に立ちました。
とりあえず舞台に立たせて恥をかいたりして育てるようなやりかたでした。
舞台でひとしきり怒られてお客に笑われてしまいますが、芸は笑われて上達するものだと後年いっていました。
内弟子は18~24歳までで、その後独立しました。
私の名前でお客さんが来てくれるので、自分で背負わなくてはいけなくて気持ちは全然違います。
海外公演も師匠と一緒に行きました。
アメリカの公演は1986年、で31年前になります。
師匠の演奏をアメリカの人が聞くと、その瞬間にはっとなりました。
お客さんも毎回違って、お客さんが今回はこういう感じだとすぱっと掴んでしまって、その中でどういう風に演奏するかは、自分の中で判ってしまう。
初代は小さい頃に視力を失っていましたが、音、雰囲気で(耳の情報)でそれに合わせて演奏します。
アメリカでの公演は大成功でした。
若いころにそういう人と御一緒させてもらって、同じ舞台を組ましてもらったことは、何ものにも代えがたい財産だと思っています。
2代目を襲名が20年前、いい三味線の音をだすということを考えればいいんだとおもいました。(翌年初代が亡くなる)
襲名するちょっと前から指が変だなとは思いました。(しびれたりつったりする)
2000年に新潟県糸魚川に行って丸2年完全休業しました。(使い過ぎだったと思います)
結婚相手は糸魚川の人(登山家)です。
買い物は片道1時間半かかります。(車は使いません)
携帯も使いません。
鶯の声なども聞こえてきます。
東日本大震災の後チャリティーコンサートをしています。
災害のあった場所はそこに住んでいる人でなければ判りませんので。
改めて民謡の力を心底知りました。
民謡は地の底をはいずりまわるような、そういうものから生まれているので、そういうものを自分がどうみなさんに聞いてもらえるか、自分がどうとらえて考えてやっていくかを改めて感じさせてもらいました。
自分が苦しい時、嬉しい時にポッと出るのが民謡なので、そういったものを聞きたいと言います。
初代の竹山先生の映画の製作が進んでいます。
大西 功一さんという監督が一人で作っていて、ドキュメンタリー映画です。
「津軽のかまり」と言うタイトルで「かまり」とは津軽弁で香り、においのことです。
初代を軸に自然のこととか、人間像、初代のゆかりの地とか織り込ませながら製作されています。
2代目襲名20周年記念コンサートをピアノの方(小田朋美)とのコンサートになります。
アイルランドの詩人ヌーラ・ニー・ゴーノルさんの詩集の中から、曲を付けて「ファラオの娘」と言うことでお披露目したいと思っています。
自分の気持ちとマッチしています。
音色を引き継ぐ、三味線を引き継ぐことも大切ですが、先生の生きざま、人間と云うものはこういうもんだ、ああいうもんだ、といつも先生からお聞きしていますので、そういうものを噛みしめながらやっていきたいと思っています。