神田紅(講談師) ・“万芸一芸を生ず”に導かれ
1952年生まれ、今年芸道40年を迎えました。
福岡から東京にでて女優の道を歩んでいた神田さんですが、師匠である二代目神田山陽さんとの出会いが人生を大きく変えました。
講談の世界に入った神田さんは精進を重ね、平成元年に真打ちに昇進し、明るく楽しく判りやすい芸風で、古典から創作ものまで幅広い作品を演じ人気を博しています。
現在は紅一門を率いながら日本講談協会会長を務める神田さんに伺いました。
昭和54年講談の道に入りました。
女優時代2年、講談が38年に成ります。
福岡県で生まれて、1歳に成る頃に福岡市内に移りました。
受験の途中に大失恋をしまして、方向転換をしました。
自分はいったい何をすればいいんだろうと思って、TVを観ていたら美輪明宏さんが「よいとまけけの歌」を歌っていて、歌手か役者を聞かれて、役者ですとおっしゃった。
私は吃驚して、人間は寿命はあるが役者と言う仕事をすると、役の人生を生きることが出来るので人の何倍もの人生を体験できるとおっしゃったので、これだと思いました。
役者をやれば色んな人生を体験できて本当は何をやりたかったのかが判るのではないかと思って役者になろうと、早稲田大学に行き勉強はほとんどせずに、演劇研究会というクラブで演劇をやりました。
文学座が入りやすい雰囲気だと思ったので大学2年の時に文学座に入って、大学は休学して、勉強したが上の研修科に残れなかった。(100人のうち10人が残れる)
納得がいかなくて聞きに行ったら、或る先生が間違えていたようだった。
演技さえきちっとしていれば認められると思っていたが、日常の自分のアピールをしっかりしてやらないと、こういうことも遭遇するんだなあと思いました。
間違えられた子は出席率が非常に悪かった。
自分をしっかりアピールできる人間にならないといけないと反省しました。
中村敦夫さんのプロダクションに入り、一生懸命やりました。
市原悦子さんの付き人を2年やらせていただきました。
三味線、日本舞踊、タップダンスなどありとあらゆる事をやっていました。
その当時は「中原鐘子」と云う名前でした。
舞台はいろいろやらせていただきました。
「屋根の上のヴァイオリン弾き」もオーディションを受けましたが、踊りはそこそこできましたが歌は下手でしたがよく選ばれたと思いました。
器用貧乏で存在感がない感じであがいていた時代でした。
本当に仕事がなくてどうしようかと思っていたときに、舞台の音楽家の先生に講談やってみないかと言われて、二代目神田山陽師匠(69歳)を紹介されました。
台本は漢字だらけでよくわからなかったが、2月に入門して4月には舞台でした。
タップをしてのミュージカル講談 「ヘンデルとグレテル」というのを作ってタップを踏んで演じました。
師匠からは表現方法は自由でいいよと言うことで、不思議な舞台が出来上がっていきました。
「ようやく、つ離れしました」と言うのが、その当時の本牧亭の講談の定席の人数だった。(つ離れとは九つまでは「つ」が付くが九つ以上 即ち10人以上程度)
伝統芸の間に隙間が入って、女性も入ることが出来てすこしでもお客様を呼ぶことができたと言うのが師匠の狙いだったのではないかと思います。
師匠はとにかくほめ上手だった。
いない時に私のライバルをけなす訳です、そうすると師匠は私の事をわかってくれているなと思ったが、或る時にライバルがけいこ中に「紅君はここが駄目だけどその点君は素晴らしい」とおっしゃっていて上手い教え方だなあと思いました。
師匠は「万芸一芸を生ず」と云う事を座右の銘にしていました。
師匠は色んな事をやったことが一つの芸に集約されていくから、それが私の生き方でありそれを一番体現しているのが弟子の紅だと言うことを書いてくれたりしてくれました。
師匠は恩人です。
平成元年に真打ちに昇進、師匠が落語芸術協会に入れてくれて、会長が桂米丸師匠でした。
最初踊りなどでしたが、その後一本立ちして一つの話芸として、講談として入れていただきました。
落語の様に笑いを入れるようにとは師匠から言われました。
でも最後は腕だよとは師匠は言っていました。
女の芸人は歳を取って行くとどう考えたらいいのかを玉川スミ先生に聞いたら、「歳、そんなものは忘れるのよ」と言われました。
2000年に師匠がなくなって、神田陽司君が一番弟子に成り、もみじが翌年はいってきました。
なかなか弟子を育てることは思うようにはいかないが、それぞれの個性を生かすように考える様にしました。
人を育てると言うことは物凄く自分の勉強に成ります。
講談を辞めたくなると思うようなときに弟子が入ってきて、じゃあ頑張らなければいけないと思う訳です。
師匠に恩返しするのには落語と肩を並べるぐらいになれればいいなあと思いましが、それにはまず弟子を沢山育てないといけないと思います。
師匠(91歳)が亡くなり、陽司君が去年亡くなり、何かやってあげられなかったのかと悔しい思いがあります。
師匠の手拭が師匠だと思って高座に上がりましたが、陽司君が去年亡くなり、健康が一番だと思います。
健康を維持しないと弟子は育てられないので健康には気をつけて居ます。
日本講談協会、講談協会に東京は組織が分かれて居て、私の方の日本講談協会は20人で、講談協会は43人、総勢63人でそのうちの40人が女流講談師です。
23人の男性のうちほとんどは私より年上です。
落語家がブームに成り、落語は女は無理と言われていて、講談ならいいと言うんです。
講談は少しは笑いを取り入れると言う意味では、女性の方が講談には向いているのではないかと思います。
男の声で聞きたいと言うお客さんも多くなってきていると思います。
女性が今後も活躍して行くためには、題材、テーマとかを男の人ではないものを追求していく必要があると思います。
講談の全盛期は江戸末期から明治、大正期で、古典の数が多くあるが、大半が語られなくなっているので、それを復活して世に出してゆくことと、創作講談もやっていきたい。
歴史は嫌いだったが、歴史の面白さが判ってきて、歴史の楽しさを伝えていきたいと思っています。