山川静夫(エッセイスト)・美空ひばり 幻のインタビュー
5月29日は美空ひばりさんの80回目の誕生日、今年は美空ひばりさんの生誕80周年にちなんで、記念のコンサート、CD、DVD等のリリースが行われています。
そんな中貴重な録音が見つかりました。
1988年昭和63年4月12日、NHKの国際放送で南米向けに放送した、「この人に聞く」の録音テープでした。(日本向けには放送されず幻のインタビュー)
病気の後だったので、ガウンみたいなものを着て録音が始まりました。
弟さん二人を亡くしてお母さんを亡くして一人ぼっちの時でしかも一人で静養していた時でした。
寂しさが心をむしばんでいたが歌には情熱を持っていて、1カ月あとに東京ドームのコンサートを控えて居ました。
私の最初のひばりさんへのインタビューは昭和44年8月18日でした。
オーラがすごかった、歌にかける情熱がすごかった。
リハーサルでも決しておろそかにしなかった、「悲しい酒」でリハーサルで全部泣きました。
昭和45年8月24~28日で「ひばりの5日間」という番組があって、うちあげをして飲んだんですがその時に親しくなりました。
ひばりさんは何時も必死でした。
昭和63年4月12日でのインタビュー
今まで命として思って歌ってきた大好きな歌を歌えなくなってしまうのかと思って恐ろしかったです。
何時自分が立ち直れるのかと毎日悩んでいました。
自分の歌でも掛ける気になれなかった。
先生と話すうちに光が見えてきて、今度歌いだすのは何時だろうと考え出すと、自分が大事にしてきたことをこんなにお休みしていることが勿体なくなってきて一日も早く歌いたと思いました。
一番つらかったのは友人が来てくれて会うと、言葉がでなくてベッドの上にいるひばりが見られる自分が情けなくて胸が痛みました。
昭和23年がデビュー、40年たちました。
私の中に青春があったのかなあと考えるときがありますが、私が歌ってきたことが自分の青春だったのかなとこの頃解説できます。
母の力で防波堤に成ってもらったりしてここまで作り上げてもらえたのかなあと思います。
のんびり構えて居てもいいんですが、なにかがひばりを歌わせようとせかすんですね。
歌に対する執念ですかね。
カラオケにも行きますが他人の歌です。
自分の歌を歌うと仕事をしているみたいに成ってしまいます。
酒を飲むのは雰囲気に酔って飲んでいました。(大勢で)
田中角栄さんに歌を披露したことがありますが、批評していただいて、1番は良いが2番は良くない、3番はいいとおっしゃいました。
作詞家は歌は2番がどうしてもおとしてしまう傾向にある。
プロは出だしで失敗しても最後に取り戻そうとしますが素人にはできないと思います。
自分がこういう歌を歌いたいと自分から言ったことはないが、色々持ってこられると厭とはいえない、必ずやってみようと思います。
それが全部私の大好きな演歌にプラスに成って来ます。
古賀先生は私にとっても宝物で「悲しい酒」と言う名曲を残していただいて、いまだに「悲しい酒」を歌っています。
マンネリと思う時もありますが、「悲しき口笛」「りんご追分」などを避けて構成すると却ってファンの方々がさびしがります。
慎重派ではありますが、わがままで完璧主義者で母がいる間は私の代わりに鬼婆となってカバーしてやってくれていました。
自分が敵も作らず良い子になろうと考え出したら、美空ひばりは良い仕事はできないと思います。
美空ひばりの怖さはどういう所にあるんでしょうか?
会うととっても違いますねとおっしゃるんです。
山川:大スターと云うのは必ず何かを持ってるし、大勢の人を魅了する力を持っている、その目に見えない力に圧倒されて、必要以上に書きたてるもしますし、だからかもしれません。
4月11日東京ドームのコンサート 活躍する時期が早すぎると思うが。
親しい人からもテープでやるのと言われたりするが、生で歌っているのにテープと思われるのがかなわないので、命がけでやるのでそういうことをちらっとでも思われては困るので、スタッフに申し入れました。
「私の歩いた道」 美空ひばりの詩
9歳のころから母と二人で芸能界に漕ぎ出した。
その時から私は歌うほかには誰にも心の窓を開かなかった。
好きな歌を歌うことだけが、そんな私の生き甲斐だった。
キューピットではないけれど、みんなに幸せあげたいの。
これがそのころ私が作ったロマンチックなキューピット。
しかし本当に多くの人に幸せを与えることが出来たのかしらと私はいつでも
心の中で思っている。
私の歌をだれよりも理解してくれたのが母だった。
命を掛けて守ってくれたのも母だった。
その母も遠いところへ旅だっていった。
それでも私は歌い続けた。
歌は母が命をかけて残してくれた何物にも代えがたい遺産だから。
こんな私を置き去りにして弟たちも遠いところへ旅立っていった。
それでも歌を歌い続けた。
私っていったいなんだろう。
涙を忘れてしまったのかしら。
暗い部屋に一人ぼっちになってしまった私。
心の窓をちょっぴり開いてそっと外を眺めてみよう。
色んなことも体に感じさせてみたい。
私だって人間だもの、寂しい時だってある、悲しくって大声で叫びたい時もある。
しかし、それは私には許されない。
何故って、私はひばりだから。
いつも私は一人ぼっち。
たとえ自分を傷つけたって、笑顔で元気なひばりでいなくちゃいけない。
そのたびに心の窓を閉めてしまう私。
人は優しく言ってくれる。
ひばりちゃんゆっくり休養してくださいって。
でもこんな温かい言葉にじっとしていられない私が体の中には棲んでいる。
それは私の身体の中で今も生き続けている母。
私の心の中で今も燃えている母の執念。
そして天のどこかで私の人生に悔いのないようにと祈っていてくれる母の声。
母は私と一緒に生き返り、私と一緒に燃えている。
今度こそ心の窓を思いっきり開いてみよう。
そして広い世界を見つめてみよう。
歌の星は何時でもそっとこんな私を守ってくれるでしょう。
命よ、命を有難う、私の歌よ有難う、ファンのみなさん有難う。
(涙ぐんでいました)
録音が昭和63年2月26日 その1年4カ月後には亡くなってしまう。