河瀬直美(映画監督) ・届けたい まっすぐな光を
48歳、1997年に劇場映画デビュー作「萌の朱雀」でカンヌ国際映画祭で新人監督賞を2007年の「殯(もがり)の森」で審査員特別大賞を受賞しました。
河瀬さん自身が脚本を手掛けた最新作「光」が現在フランスで開催中の第70回カンヌ国際映画祭の最優秀賞パルム・ドール(Palme d'Or)を競うコンペティション部門にノミネートされ注目を集めて居ます。
今年は「萌の朱雀」から20年の節目の年、映画に掛ける意気込みと故郷奈良に寄せる思いを伺いました。
「光」は徐々に視力がなくなってゆく男性カメラマンと音声ガイドを製作している女性が心を通わせてゆく物語。
字幕などは日本語の意味合いが英語に無かったりして、そんな中言葉の選び方が思い入れのある人たちだなと思って、音声ガイドはどのぐらいの歴史があるのかと思ったら15~20年ぐらいしかなかった。
こんな人たちがいると言うことを知ってもらった方がいいのではないかと思って映画にしたいと思いました。
音声ガイドは映像を言葉で説明してゆく。
セリフは映画の中で言ってるのでいいが、部屋の状況などを説明したりするが、答えのない世界で四苦八苦している。
今回映画を作るにあたって視覚障害の人などに取材を重ねて行くうちに、町で見る接していない時のイメージと実際に接して観ると、前向きで明るくてと言う方が居て違っていて、私たちの方が気付かされることが多かったです。
生れ付きの先天盲と中途失明の方が居て、先天盲の方が私達の中にイメージとしてあって聴覚が発達してゆくとか言われるが、途中まで見えて居た人が見えなくなる人の方が見えて居た時のことに凄く執着があって苦悩されている。
そこから前向きな自分に成るまでには時間がかかる。
苦脳して自分の役割を見出すことができなくて心がすさんできたりする。
主人公雅哉は眼を使った仕事をしている、それを奪われると言うことは自分の人生が終わってしまったかのような思いをする。
雅哉はどのように前を向いて生きて行くのか葛藤がある。
具体的ではない何か「光」があるのではないかと思う、心の奥にある光の世界。
1969年生まれ、48歳になります。
40歳ぐらいから自分の役割を考えるようになり、次の世代に繋いでいかなければいけないものがあるのではないかと思うようになりました。
子供は今年中学生に成りました。
私は空想癖の或る子供でした。
両親と一緒に暮らしていたことがなくて、父親を知らずに育って、母方の遠い親戚の老夫婦のところに養女として育てられました。
自分を見るもう一つの目を小さいころから持っていたのではないかと思います。
近所に同世代の子がいなくて、一人ぼっちになってしまうので、一人で遊んだらいいと養父(おじいちゃん)から言われました。
養父は自然の中で育った人でそれに影響されて、自然、季節を感じるような日常を過ごしていました。
養父は県庁に勤めて居て、とにかく規則正しい生活をしていました。
自分にとって映画、TVは遠い世界の話でした。
高校卒業するときに、このままいい大学、いいところに就職をしてゆくことが楽しいかなと思ったらあまり楽しくなさそうだなと思って、もっと決められていないけれど楽しい世界があるのではないかと思って、自分で自分でしか作れないものを作って生きていけたらいいなあと、いずれ死んでしまう時にそれが後悔しない生き方なのではないかと考えました。
たまたま映像、映画、その時間を切り取りたいと思いました。
入った学校が映画が盛んでした。
映像の持つ力は今ではない時間を今に持ってこれると言うのは、初めて学校で8mmフィルムを撮影し、現像から上がってきた映像を見たときに物凄く驚きました、タイムマシンを手に入れたように思いました。
両親と暮らしていなかった事に対して、養父母と楽しく暮らしていたので寂しいとは思わなかった。
そのあと映画を撮り始めて、寂しくはなかったが父とは逢いたいと思っていたので、逢いたいと言う気持ちを友達など近い人たちに伝えたが伝わらなかった。
映画にしたら物凄く共感してくれて私を見る目が変わり、友達と深い話をするようになった。
これから先に出会う人とはもっと深い関係をつなげていける可能性があるわけで、過去の寂しさよりも未来の喜びの方に目を向けた方がいいじゃないですか。
この映画を撮るにあたって悲しみを見つめようとしたのではなくて、そこから先を見つけたかったからそれに眼を向けたんです。
時間って、わたしたちの中にある様でないのではないか、過去は記憶の中にあり、時間は時計が生み出しているが、実際それってあるのかなあと思います。
生も死も越えた輝きがあるのではないのかと思います。
命、魂とかは人間が言語化できたり、認識して記憶できたりするから一番すぐれた生き物のように思われるが大きな木、大地、空、星等もそういうものを持っているかもしれない。
わたしたちが計り知れないものがあるなあと思います。
なんで奈良に生まれ落ちたのかなあと思いますが、1000年の歴史の息吹が自分の中に入り込んで、そういうスケール感のある考え方に成っているような気がします。
1000年前の人が万葉集で好きな人を思ってこの川のことなどを詠んだんだと思うと、スーっと1000年の時が繋がるんです。
私の撮った映画もそうなんじゃないかと思います。
2007年の「殯(もがり)の森」で審査員特別大賞を受賞し、2010年が平城遷都1300年記念、それから7年たっているが、地元の社長さんたちが協力してくれて映画祭をやろうと言うことに成って1回目終わったらほとんど辞めてしまって、やることが大変で、(カンヌでも同じで、)2回目でもやろうとして同世代の人たちがやって、海外のゲストが話題にしてくれました。
日本人のおもてなし、アテンド力は心があるんです、これが評判になって3回目になり、4回目をどうしようと言うことに成って大きくしようと言うこともあったが、そのままの規模でやることになりました。
奈良市が助成金のカットをしてしまって、開催まで半年の時で、規模の縮小なども考えたが時間がなかった、そのニュースが流れた時にこれまで以上の協賛が集まりました。
奈良では新しいことをするのなら奈良をでて行った方がいいといわれるが、ここには歴史と文化があり万葉集に歌われている川や山があり、これはにわかにお金で買おうと思っても買えないもので、これを今の時代のニーズに合うように継承していって宝物に変えて行くことはできるのではないかと思っている。
奈良では自分が出来る役割をやっていこうと思っています。
私にしか作れないものを作っている、それがユニークと言うか、とことん人と人とのつながりを描くとか、家族のありようを描いたりとか、目に見えないもの、そういったつながりを具体的なストーリーを通して描くことに共感していただくことが多い。
誰しもお母さんから生まれ、家族があり、離れてしまったり不幸な関係に成ってしまうかもしれないが、元をただすと決して一人ではなく、必ず誰かとコネクトしている、根源的な事を描いている事だと思います。
映画は表現なので誰かが評価するので、審査員のまなざしとどれだけ共有できるかということなので運とか縁とかそういうものが物凄く影響するのですが、「光」は私は世界一の映画だと自分では思っています。