都一中(一中節宗家十二世) ・紆余曲折の浄瑠璃人生
本名藤堂誠一郎さんは1952年東京生まれ、6歳より父親の常磐津子之助に浄瑠璃と三味線の指導を受けました。
71年東京芸術大学音楽部邦楽科に入学しましたが、1年で中退、その後は常磐津節の三味線の修行を重ね75年に11世都一中に師事しました。
91年には12世都一中を襲名しました。
都一中さんは40歳の時に脳腫瘍にかかり、手術を受けましたがその時の体験が人生観や自分の音楽観に大きな影響を与えて居ると言います。
5年前に都一中音楽文化研究所を設立、国内外で講演会や演奏活動を通じて日本の音楽文化の普及に努めて居ます。
子供のころは音楽家になるつもりはなかったです。
今考えると有難い音楽環境でした。
父は浄瑠璃、三味線、母は芸者だったので踊りを主にやっていて、お座敷には出ていまして、おなかの中にいるころから邦楽に関する環境だったのでよかったと思います。
レコードも家にはあって、パティーページが一番好きで、テネシーワルツは暗くて厭で裏面に明るい音楽がありそれが好きでした。
3歳ぐらいから浄瑠璃は稽古していて、初舞台は3歳で三味線の初舞台は7歳でした。
中学生の時には加山雄三さんの大ファンでエレキバンドをやっていました。
高校でブラスバンドに入り、トロンボーンをやって指揮もさせてもらいました。
三味線も常磐津も上手くなくて駄目ねと言われて居ました。
父が買って来てくれたワグナーのタンホイザーの大行進曲があり、大好きですり減るほど聞きました。
指揮者になりたいとその時におもいました。
音楽のほかに日本的な枯山水の庭、長谷川等伯の松林図屏風などに心を動かされていて、その接点が父の三味線かもしれないと思いました。
東京芸術大学の邦楽科に入りました。(長唄 三味線)
長唄ではなく常磐津を早く現場で覚え、後を継ぐように1年で辞めろと強硬に父から言われて中退しました。
その間小泉文夫先生の理論に大変感銘を受けて、後半は先生だけの授業に出て居ました。
浄瑠璃は語りがありそれに後から三味線がくっついたと言う感じです。
澄んだ気持ちになる音楽、源流は平家琵琶。
17世紀の後半から盛んになる。
三味線が日本に入ったのが安土桃山時代で、それから100年後、元禄時代になって非常にはやりました。
その中に義太夫も一中もありました。(常磐津、清元なども)
初代一中の弟子に半中がいたが、一中をしのぐ大天才で宮古路豊後掾と名前を変えて江戸で爆発的に流行して、余りに流行しすぎて弾圧される。(吉宗の時代)
その弟子の筆頭が宮古路文字太夫と言う人がいて「常磐津」を、その弟弟子に富本豊前掾という人が「富本」を興して、その次に宮古路加賀太夫が「新内」を興して、その3つを「豊後三流」と言われる。
「富本」から「清元」が出来ました。
「一中節」はゆったりしていてたおやか、「常磐津」は勢いがある。
20歳のときに歌舞伎に出させてもらいました。
昭和48年4月、7代目三津五郎追善興行を8代目三津五郎さんが行い、その時に出させていただきました。
「一中節」の浄瑠璃を稽古をするように言われて、「一中節」は頭と腹で弾くんだと言われました。
最近になって、理性と感性でバランスよく働かせることが三味線を弾くと言うことなんだと思うようになりました。
11代目都一中は女性で、後の人間国宝になる。
半年は優しかったが、いきなり厳しくなり怒られました。
厳しかったが、音の真実を妥協しないで教えてもらった。
「その音でいい」と言われた時と、怒られた時の音が全然判らなかったが、今は弟子に教えるときに判ります。
その心がなければ音にでない。
一中節は三味線を弾くと言うのではなくて、音に真実を求めることが修行だと教わりました。
師匠が入院されたときがあって病室で次の一中になってもらいたいといわれましたが、とても無理だと言いましたら、この時が一番怒られました。
1週間考えさせてもらって「お受けします」と言ったら、涙を流してありがとうと言ってもらいましたが、その後元気になって継がなくて済むのではと思ったが、師匠が亡くなる直前に関係者にこの人に家元を繋ぐと言う内容で700通手紙を出しました。
家元は上座にあってはいけない、一番下座にいて、流儀の中に問題があってあなたに関係なくても謝りなさいとそれがあなたの仕事です、あなたが一番うまい必要はない、と言われた。
「一中節」を愛する気持ちだけはだれにも負けてはいけないとも言われました。
頭がすごく痛くなりCTスキャンの検査を受けたが、脳腫瘍だと言われました。
先代の3回忌の追善の最中で負担が大きすぎて居て辞められるかもしれないと思って
ラッキーだと思っていたが、手術をした後も頭が痛くて、何か自分の心に何かいけないところがあるのではないかと思い、尊敬されたい、ほめられたいとかのさもしい気持があり、これを反省すれば生かしていただけるかもしれないと思って、ひたすら皆さんに喜んでもらうことを大事にしたいと思った。
病気になって半年仕事をしなくなって、自分の為だけの勉強ができると思った。
その時間に人生を見直す、一中節をひたすら徹底的に1年間練習しました。
それからは毎年1カ月は海外に出かけて休養しました。(散歩したり一日中三味線を弾いたり)
5年前に都一中音楽文化研究所を設立、本当にやりたいことを本当にやるために音楽から学んだ日本人の精神文化、平家の怨霊のたたり、日本文化の優しさ、自分が幸せになる簡単な事は人の幸せをひたすら思うこと(漫才の原点)、笑うと言うことが幸せを作るとか、日本文化の精神を若い人に伝えていきたいと思っている。
現代の諸問題を解決する方法は全部浄瑠璃の中に入っています。
本当の教養は無意識に人を幸せにして、自分も幸せになる行動をとってしまう人が教養のある人、無意識の部分を作るのが音楽なんですね。
正当に真実をもってやらなければ絶対に事は運ばないと言うことを浄瑠璃から学んで、そういうことを若い世代に伝えたい。
ボランティアで是非手伝いたいという若い人達の思いがあります。