2019年4月27日土曜日
立川志の輔(落語家) ・【舌の記憶~あの時、あの味】
立川志の輔(落語家) ・【舌の記憶~あの時、あの味】
「極めつけは故郷冨山の食。」
代表する落語家の一人です。
語りの上手さに定評のある古典は勿論、一級の新作落語を作り演じ続けています。
人気実力ともに高い評価を得ています。
落語家としては1983年28歳という遅いスタートでしたが、その後は7年で真打ち、来年
2020年には真打ち30年という節目の年を迎えます。
この2月には初めての主演映画も封切られました。
富山県には毎月赴いて独演会を開くなど故郷には特別な想いを抱き続けています。
TV、ラジオと落語の話法、語り口の違い、凄くお喋りだったという少年時代、サラリーマンから一転して飛び込んだ落語の世界の衝撃的な出会いなどを伺います。
NHKの「ガッテン」は25年に突入します。(「ためしてガッテン」で21年)
これだけ続くとは思っていませんでした。
司会を始めた時は40歳でした。
TVの場合は総合芸術だとつくづく思います、100人近くのスタッフが動いています。
沢山のアルバイトの学生も何人も関わってくれている。
「ガッテン」ではゲストが何を言うのか判っていないので、明るい雰囲気でゲストと一緒になってスタジオを一つにまとめる事が僕の仕事だと思っています。
同じセリフを練習してきた落語と、ゲストの人がなにを急に言うかわからないスリリングさ、アドリブ感とは全く違います。
落語は前は練習してきた台詞を喋ることだけだったんですが、変わってきて落語の話の中の人物の聞いている方の立場の顔が見えてくると言うのはとても大事なことだと思います。
TV、ラジオからも色んな有難い事を学ばせてもらいました。
TV、ラジオなどは一人の人にむかってしゃべればいいのに、落語は複数の人に向かって喋るので、種類が違うと難しく何処までやってもきりがないですね。
18歳まで富山県にいました。
舌の記憶というよりも、僕の大好きな食べ物を人に食べてもらいたいと思って、渡した時の相手の反応の場面の記憶が強いです。
昆布の消費量は沖縄、富山が一番で、昆布締めの文化が富山にはあり、いか、たら、えびなど色んなものを昆布の間にはさんで昆布のだしを刺し身に移して味わう文化です。
父は毎晩昆布締めで酒を飲んでいまして、僕などはおかずに食べていました。
昆布の味がいかなどに沁み込んで何とも言えない美味しさです。
わらび、すすだけとかも昆布の間に挟んでわさび醤油などで食べます。
友人にいかの昆布締めを渡したんです、昆布をはぐると糸を引いてしまって、彼が「エーッ」といって、駄目になっているんではないのと云う顔をして、その顔が物凄く印象に残っていて、その後「美味いなあ」と言ってくれた表情の落差の記憶を思い浮かべます。
富山に帰って本当に楽しみです。
昔は無かったが、東京ではいまは富山の昆布締めを認めてくれています。
スーパーで買ったお刺し身も昆布で巻いて冷蔵庫で保管して食べると富山の気分が味わえます。
18年富山のいかを食べてきたので、東京に来た時に食べたいかは白くて吃驚しました。
東京に来て思い出すのは、食べ物で言うならば、富山と関係の無いもので言うと、実家で毎日食べていたご飯(コシヒカリ)におろしたての長芋かけて醤油をちょっと掛けて食べたとろろ芋(ながいも)ですね。
美味しいものを食べていたんだなあと思います。
子供のころは軟式テニスをやっていましたが、口から生まれたのかと言われるぐらいよくしゃべっていたようです。
人がいっぱい居るところが好きだったようです。
中学の時に弁論大会があり、出る人が出られなくなって、先生から替わりに出る様に言われて、1位になったことを覚えています。
富山にいる頃は落語は知らなくて、明治大学の落語研究会に入ったら、2年先輩の三宅裕司さん等が喋っていました。
それから毎日のように寄席、劇場などに行って仕送りのお金のほとんどと使ってしまう生活になりました。
卒業してから広告会社でサラリーマンをしていました。
観て聴いて楽しいかもしれないが落語家になることは違うと言う思いが常にありました。
28歳で落語家の道に進むことになりましたが周りはあきれ返っていました。
入門の1年前の国立劇場で立川談志の「芝浜」を観て雷に打たれるような思いでした。
それが決定打でした。
自分が思っていた落語観が打ち砕かれた思いがした。
入門後半年後に落語協会を脱退して、寄席に出ないと言う道を立川談志がどうして選んだのか、立川流というのが出来て、寄席に出ない落語家の第一号に僕がならなければいけなかったのか、うーん・・・・。なんでだろうの連続でした。
色んな場所でやらせてもらいました。
立川談志がやろうとしていたおおくの人に聞いてもらう事の一端をやり続けながら、横幅が広がってきているように思います。
今は若い人が寄席でも劇場でも来てくれるようになりました。
「修業とは理不尽に耐えることだ」と言うのが師匠のフレーズでした。
「常識通りに行くと思ったら大間違いだ、常識を疑うところから物は始めなくてはいけない」と言う人でしたから、驚くことだらけでした。