2019年4月14日日曜日

ロザンナ(歌手・イタリア家庭料理研究家) ・「『愛の奇跡』から半世紀」

ロザンナ(歌手・イタリア家庭料理研究家) ・「『愛の奇跡』から半世紀」
イタリア北部ヴェネト州スキオ生まれ、68歳。
音楽学校卒業後歌手を目指して1968年に来日し、出門 英(でもん ひで)さんと組んだ「ヒデとロザンナ」として『愛の奇跡』でデビュー、紅白にも出場しました。
やがて二人は結婚して3人のお子さんを設けましたが、出門さんは47歳の時に結腸がんで亡くなりました。
その後ロザンナさんは子育ての為に日本に残り、歌手としてイタリア家庭料理研究家として活躍しています。
日本語もすっかり上達をして、イタリア料理や自らの人生についての講演や執筆活動にも力を入れています。
そして3年前には日本に帰化することを決意し、申請から1年3カ月後の2017年に帰化が認められました。
来日したいきさつ、日本での50年の暮らしで感じた事、帰化の道を決意した理由、今後の歌手、料理研究家としての活動などに付いて伺います。

音楽学校卒でピアノ、発声練習などしましたが、さぼってばっかりしていました。
15歳位の時に、映画館がオープンするのでなんかイベントをやりたいと言う事でした。
ママが経営していた喫茶店に4人の学生が来ていてバンドで活動していました。
女性が一人加わった方がいいと言う事で姉に話が来ましたが、私でよければ歌ってあげるわよ、と言う事でスタートしました。
それで音楽学校に行って勉強することになりました。
ママの兄弟がいて、一人がピアニストで一人が声楽をやっていましたが、オペラではなかなか食ってはいけないので、その叔父が今度日本に呼ばれているので一緒にいかなかと誘って、バンドを組んで叔父らが日本に来たのが東京オリンピックの年でした。
それから3年間やっていたら、叔父さんから一緒にやらないかと私に手紙が来ました。
親を助けてあげるんだったらと、とりあえず出稼ぎのつもりで来ました。
赤坂に来たら日本のイメージと全然違っていて、近代的なビルが並んでいて吃驚しました。
赤坂のゴールデン月世界と言う高級ナイトクラブがあり、そこで叔父さん達とコーラスなどをやったりしていました。
一緒にレコーディングしたいと言う人がいるのであって見ないかと言われました。
それがヒデさんでした。
この世の人ではない位素敵な人に出会ったと思いました。
この人は私のパートナーとなるんだなと思いました。

『愛の奇跡』はB面で間奏部分になんか言ってってほしいとの事だったが、アモーレとか何とか言ってくれと言う事でと、彼の前なので恥ずかしかったがなんとかこなす事が出来ました。
『愛の奇跡』が大ヒットすることになりました。
その後ヒデと結婚するととになりました。
夫としては優しくて良いんですが、亭主関白でありたくて、家にいて家を守ってもらいたいと思っていました。
辞めるつもりで過ごすうちに、いつでもそのうち呼ばれて出演してしまいました。
子供は男2人、女の子が1人です。
彼は食い道楽で、朝昼晩常に違うものが食べたくて大変なんです。(和風、洋風、中華風とか)
出されたものは一度も不味いとは言ったことはないです。
47歳の時に癌で亡くなりました。
その前年になんか調子が悪いと言っていました。
触るとお腹にこぶし大のぐりぐりがありました。
病院嫌いでした。
ようやく病院に行ったら、大きな病院に行くように指示されましたが、どうも黙っていました。(12月の忙しい時期だった。)
クリスマスが過ぎてすぐ12月26日に検査入院しました。
結果が正月4日になってしまいます。

4日はゴルフのコンペがあり行ってしまって、私が電話で受けてましたが、がんでかなり進んでいると言う事だった。
夜帰ってきたが凄く機嫌が良くて話しだす機会がなかなかなかったが、がんと当人には伝えないで、がんの可能性があると言う事で、やっと納得して入院しました。
先生からはリンパ線に転移していて90%駄目だと言われてしまいました。
腸閉そくを起こす可能性もあり直ぐ手術をするように言われました。
手術をして貰ったら、長くて5月頃と言われました。(1月時点)
ヒデが亡くなって、中学とかまだ3人の子供がいるしお金が無くて、マンションを売ってイタリアに住もうかと思いました。
イタリアにいって父に相談したら、「君には3本若い木がいるんだろう。 根を下ろし始めている若い木をひきぬいて違う土に入れたら、ちゃんと伸びるのかねえ。」と言われてしまいました。
一瞬何て冷たい親なんだろうと思いましたが、考えればなんて凄い愛なんだろうと思いました。
子供たちにも聞きましたが、日本に戻ることにしました。
TV朝日からモーニングショーでパーソナリティーをやって欲しいと言われて、できないと思ったが、最終的に90分のトークショーに出演することになりました。

その後歌も歌わないのと言われて、歌い始めているうちに、狩人の加藤高道君から僕がヒデのパートをやりますから一緒にやりませんかといわれました。
4年前から一緒にツアーをやらせてもらっています。
この歳で仕事が楽しいと思うようになりましたが、素晴らしい友達がいて、楽屋が笑いで絶えないからです。
料理も母親に教わったレシピで展開していきました。
長女はモデルの万梨音(まりおん)で、NHKのEテレのイタリア語講座で2年間に渡って出演しましたが、最初彼女はイタリア語は喋れませんでした。
家では日本語だけにしていました。
この話があった時には是非やりなさいと言いました。
父親がいる間は帰化の事はできませんでした。
帰化の為の書類は70種類位あり大変でした。
一番大変だったのは帰化をするにあたって1,2年生のひらがなカタカナ、漢字の読み書きができることと言う審査があることです。
漢字が駄目でした。(音読み、訓読みとか 線が増えてくると駄目)
行ってみたらその審査は無くなりましたと言われました。
本名:加藤 絽山奈(かとう ろざんな)となりました。

最近は何処へ行っても大体イタリアレストランの美味しいのがあります。
ピッツアも窯で焼いています。
日本に来て吃驚したのは日本人の髪、目がみんな黒くて、学生などは服装も黒い。
いまだにロザンナちゃんと可愛がってくれていて、本当に幸せだと思います、このまま続いてくれてポコっと逝ってくれればいいと思っています。