2019年4月7日日曜日

柳澤慎一(俳優・ジャズ歌手)       ・「我が人生 つづら折り」

柳澤慎一(俳優・ジャズ歌手)       ・「我が人生 つづら折り」
東京都出身86歳、1952年20歳でジャズ歌手としてデビュー、その後軽演劇でも活躍し、戦後のラジオと草創期のTVの大スターでした。
身体に障害がありながら、ジャズ歌手として今もライブハウスのステージに立っています。
社会福祉活動家、東西庶民文化史研究家としての顔もお持ちです。
俳優としては主演、助演合わせて150本以上の映画に出演されていますが、60年振りに主演した映画「兄消える」が来月公開されます。
長い芸能生活を振り返ってもらい、戦後日本のエンターテイメントの世界、伝説の名優、名人たちとの思い出などもお聞きしまます。

60年振りの映画出演、果たしてセリフが頭に入っているのか、役の人間の言葉としておさまっているのか気にしていました。
86歳で主演という事で遺作だという思いです。
全編アフレコで、並大抵ではないです。
1952年(昭和27年)20歳でジャズ歌手としてデビュー。
NHKで「君の名は」のラジオドラマが始まった年、前年にマッカサーが去った年。
歌手になる気はありませんでしたが、高校の時に共産主義にぶら下がった時があり、代々木の地下細胞にも顔を出したりしました。
思想的に転向するなら学校も転校しようと、都立豊多摩高校から青山学院に変わりました。
クリスチャンではないが教会に顔を出して、パイプオルガンを背に讃美歌を歌っていました。
老人ホーム、孤児の施設に慰問に行っていると言う事で、興味本位で一緒に行きました。
酷い施設だし、孤児たちは寒さに耐えていました。

平岡精二、ジャズ界で明日の大スターと言われた方の口真似をしてました。
進駐軍のクラブに行って2,3曲歌えば500円になると言われました。
譜面も読めない、ピアノも弾けないが、暇さえあればジャズを聞いて、2,3曲は歌えるようになりました。
男では無理ではないかと言われましたが、なんとか何がしかを手に入れるようになりました。
お金をためて、靴下、手袋、耳あてなどを買って、孤児院、老人ホームなどに持っていけるようになりました。
キャンプで歌っているうちにコンサート屋さんの耳に入って、コンサートに出て一曲歌ってみないかといわれて出て、そのうちにコンサートに来ていたNHKの音楽部の石川さんが昼の軽音楽に出て見ないかと声を掛けていただきました。

昭和27年6月30日に出たのが、初舞台となりました。
学問は嫌いではなかったので学校に戻るつもりでいましたが、そうはいかなくなってしまいました。
1953~1955年にかけて日劇に500日間出場する。
低料金で割と重宝に使えると言う事で500日出ることになったようです。
日劇では歌のほかにも小芝居もやるようになりました。
エノケンロッパ金語楼の御三家がが日本喜劇人協会を作る下打ち合わせをしていて、たまたま僕の芝居を見て、喜劇祭りにも引っ張り出されるようになりました。
打ち上げの時に突然エノケンからは「俺の二代目にするから」と言われました。
みんなびっくりしましたが、喜劇はとても身につけることはできないと思って丁重にお断りしましたが。
エノケンは自分が舞台の中央で飛んだり跳ねたりして、公演が終わるまで自分が幕を支配しないと機嫌が悪いと言うお方で吃驚しました。
東北巡業では私が義経役で馬鹿受けしたが、エノケンからこれはカットと言われてしまいました。
ロッパは俺が光る必要はない、ロッパ一座が良かったねと言われればそれがなによりなんだと、懐の深い人でした。
金語楼は落語の出なので、一人一人の個性を大事にする方だと思いました。

寄席は大好きで都々逸(どどいつ)の柳家 三亀松師匠には可愛がられました。
桂三木助、文楽、志ん生師匠などの方たちとも親しくしていただくようになりました。
NHKのドラマで印象に残ってるのは、銀河ドラマで「一の糸」という出し物があって、文楽にまつわる話でしが、文楽の若手の弟子の役割をしていました。
ひとくさりやる機会をもらってやりましたが、その道の大家人間国宝からお褒めてを頂いて何よりうれしかったですね。
人形劇「ひょっこりひょうたん島」人気を博しましたが、箱根恵明学園という処へ年に一度慰問しているので、是非生の生き生きとしているところを見せてあげようと思って、見せたら感激していました。
「トウヘンボク」の役をやりました。
社会福祉もずーっと続けて来ました。
知られたくはなかったので、慰問先では写真を撮ってもらう事はご容赦願いました。
昭和56年に国際障害者年がわが国でもスタートして、私に実行委員になるようにという事で総理府にほとんど毎日通うことになり、その合間に慰問することになるので、本格的に福祉に専念しなければいけないと言う事で、昭和56年からは表の家業になりました。
足腰が立たなくなり、3つの路線を乗り換えての慰問が出来なくなり止めることになりました。
偶数月の第三火曜日だけジャズで出ることをやっています。(浅草)
1930~1940年代のスイングジャズを6人編成でやっています。
明治元年から大正14年までジャズの歴史の本「明治・大正スクラッチノイズ」も出しました。