2019年4月19日金曜日

川本三郎(評論家)            ・【わが心の人】永井荷風

川本三郎(評論家)            ・【わが心の人】永井荷風
永井荷風は明治12年(1879年)東京小石川生れ。
中学時代から芝居や寄席に親しみ文学に没頭します。
20代半ばからは、アメリカ、フランスに暮らし帰国後は作家の道に専念しました。
代表作には『濹東綺譚』(ぼくとうきだん)、『つゆのあとさき』などがあります。
荷風の日記『断腸亭日乗』には荷風の暮らしや生き方が丁寧に描かれています。
昭和34年亡くなりました。(79歳)

大好きな作家です。
若い頃『濹東綺譚』(ぼくとうきだん)なんか読んでいましたが、本当に好きになったのは45歳位からでしょうか。
永井荷風の文学は老人文学なんですね。
夏目漱石、太宰治など近代文学はほとんど青春文学なんですね。
荷風は大人とか老人を主人公にしていて、これは非常に珍しい。
私が荷風を熱心に読むようになったのは1980年代のころ(バブル時代)で、東京の街がどんどん変わっていった時期です。
荷風は明治時代に東京の街が次々に破壊されてゆくと言う事を非常に悲しんでいた人です。
バブル期に読むと非常に古き良き東京への想いがよく伝わってきて、それから夢中に読むようになりました。
荷風の読者は女性が少ない、荷風の小説の主人公は大抵玄人の女性なんですね。
圧倒的に中高年男性です。
荷風の代表作を3つあげるとすると『濹東綺譚』(ぼくとうきだん)、『つゆのあとさき』、『断腸亭日乗』(大正6年から亡くなる前日まで書いた。42年間の記録)ですね。

東京の風景をメモし、下書きをして、最期に和紙、墨、筆で描いてゆきます。
自分で綴じて、形そのものが芸術品になっている。
晩年に住んだ千葉県市川市に原本が委託されて保管されていています。
荷風展で展示されています。
『断腸亭日乗』 荷風の若い頃の書斎の名前が「断腸亭」と呼んでいた。
荷風は断腸花(だんちょうか)という花が好きだった。
又、荷風は腸が悪かったので、日記をそのような名前にしたという説もあります。
日記の事を漢語では「日乗」という。
『断腸亭日乗』を自身で朗読している。(NHKに有った。昭和20年8月12日、13日当たりのものを朗読 当時60代)
東京で空襲に遭って、明石で空襲に遭い、岡山に行き、岡山でも空襲に遭う。
岡山の勝山というところに疎開していて、朗読は谷崎潤一郎も疎開していて谷崎を訪ねてゆく下りです。
昭和20年8月12日、13日当たりは敗戦の直前です。
戦後荷風が変人扱いされるが、原因は3度も空襲に遭って、岡山では命からがら逃げていて、空襲恐怖症があったんではないかと思う、それが奇妙な行動をするようになったのではないだろうか。
戦時下でよくこういった文章が書けると思う。
東京ではずーっと住んでいた自宅を東京大空襲で失うというつらい体験もする。
家は「偏奇館」と呼んでいた洋館だった。

「偏奇館」が東京大空襲で焼けてしまう。
「3月9日 天気快晴 夜半空襲あり。 翌日の明け方、我が「偏奇館」焼亡す。
・・・隣人の叫ぶ声のただならぬに驚き・・・庭にい出たり。・・・谷町あたりもにも火の手の上がるものを見る。・・・」
酷い目に遭っているのに文章を読むと落ち着いていてよく観察し、言葉も選んでいるし、文学者ってこうでなくてはと思いました。
荷風はさっぱりしていて、要所要所に漢語を入れていて侍の文章なんですね。
音読すると心地よさがある。

荷風は『日和下駄』という散歩エッセーを書いているが、散歩は江戸時代には無かった行為です。
明治になって西洋人が持ち込んだ習慣です。
荷風はそれを好みました。
荷風は2度結婚しているが、2度離婚してほぼ単身者と言っていいので、街歩きがしやすい状況にあったと思う。
街を歩きながら観たこと、観察した人々の暮らし、地形などをどんどん作品の中に取り込んでゆく。
荷風の文学は人との関係も出てくるが、街の描写が素晴らしい。
荷風は意識的に裏通り、路地、横丁に興味を持った人です。
特に好んだのは下町でした。(隅田川の東)
荷風の好きな人は必ず「向島の私娼街、玉の井」に出かけます。
今見ている風景の後ろ側に今は失われた過去の風景を幻として観て行く、荷風の風景の見方はそれなんです。
明治時代にどんどん変わっていき、過去と現在を重ね合わせて見て行く。

荷風は尊敬する森鴎外などのお墓を丁寧に丹念にお墓参りする。
一方でモダンな東京も荷風はこよなく愛している。
関東大震災で東京が新しい都市に生まれ変わる、モダン都市が誕生して、銀座に立ち寄ったりして両極を見て来るようになる。
荷風は恵まれていたのでアメリカ、フランスに自分の文学の為に留学した。
音楽、オペラなどを楽しんだ。
若いころは洋装でいたりして本当にダンディーだった。
日本は一人暮らしが増えてきて、そういう時代に荷風は一つのお手本にもなります。
荷風は一人生きると言う事を貫き通した人でした。
亡くなった時には近所の通いの手伝い婦「とよさん」が血を吐いて倒れているのを見つける。
その人は荷風の身の回りのことを本当に良くしてくれた人だったようです。
最期の頃の日記は一行位でした。
俳句、漢詩、絵も描いていたので、『断腸亭日乗』には絵も描いている。
荒涼とした荒川放水路に良く行って、荒川放水路の風景を描いていたし、花も好きで花の事も一杯書いている。
荷風と言うペンネーム、「荷」は荷物の「荷」ですが、これは蓮の花の事なんですね。
荷風が若い頃病気で入院して、そこの看護婦さんの名前が蓮と書いておれんさんで、それにちなんで荷にしたという説があります、ほかにも説がありますが。
戦争中多くの作家が軍国主義の下で、やむを得ないところもあると思うが戦意高揚の文章を書いていたが、荷風は孤高を守って一切そういう文章を書かなかった。
戦後にすごいという事になって荷風ブームが起こりました。