野村克也(野球解説者) ・妻に先立たれて今・・・
京都の峰山高校からテスト生として南海ホークスに入団、現役27年間に渡って捕手として活躍、歴代2位の通算657本のホームラン、戦後初の三冠王など輝かしい記録を持っています。
1070年の南海でのプレーイングマネージャー就任以降、ヤクルト、阪神、楽天で監督を歴任、ヤクルトでは3回の日本一に輝きています。
50年近く連れ添い多くの話題を振りまいた妻沙知代さんが2017年12月8日に吐血症心不全で85歳で亡くなりました。
野村さんは奥さんの突然の死に大変とまどい、男って弱いですねと肩を落として呟いていました。
今83歳、健康でよく食べよく寝ています。
野球を見てたら腹が立つんですよ、お前らプロだろう、プロ意識があるのかと、TV観ながら文句いっています。
この人を監督にしたらおもしろいだろうなあと言う人が見つからない。
監督の人材難と言っていいんじゃあないですかね。
プロ野球としてどうあるべきか、考えなければいけない時期ではないかと思います。
サッカーに追い越されるのではないかと思います。
子供が今野球よりもサッカーが多いですから。
4球団の監督をやりましたが、共通点は全部最下位です、最下位になると僕の処に来るんです。
3年契約という事で、3年で終わりました。
或る意味では最下位なのでやりやすい。
一番はミーティングですよ、これを僕は非常に重視して大事にしました。
選手全員を集めて、「野球とは、とおまらは聞かれたらなんと答えるのか」から始めるんですが、何処のチームに行っても、「考えたことはありません」と答えるんです。
プロなんだから今考えろと、そこからはじまるんです。
考え方が変われば行動も変わるので、原則を狙って僕の指導は始まるんですが。
僕の先生は誰もいません。
鶴岡監督からは気合だ、根性だと言うような軍隊野球でそれ以上の事は言わないです。
監督になるなんて考えてもいなかったので、30代に入って引退後の事を考えなければいけないので、誰にも負けない評論家、解説者になってやろうと心に決めて、優勝しないときは、日本シリーズの解説者として頼まれるので張り切りました。
良い評判を得てそれが監督に結びつきました。
ヤクルトの監督をやって欲しいと、本物の野球を教えてやって欲しいと相馬球団社長から言われ、ヤクルトの監督を引き受けました。
ヤクルトは9年やりました。
相馬社長からは全面的に信頼されました。
貧乏だったので母親を楽にさせたいと思って、美空ひばりに憧れて音楽学校に入ってやったんですが、高い音がでなくて音域が狭くて歌手は駄目だと思いました。
映画俳優に憧れて、鏡の前で真剣にやっていましたが、この顔では無理だとあきらめました。
金を稼げるのには野球しか思いつかなかった。
野球部に入って野球を始めましたが、結構簡単に打てました。
全国高校野球の京都予選でホームランを打って、これで何処からスカウトが来るかと思ったが誰も来ませんでした。
それでテストを受けるしかなかった。
新聞配達をやっていたので新聞の隅に南海ホークスの募集の記事がありました。
先生に相談したら行って来いと言われたが、大阪までの旅費が無くて先生が出してくれると言う事で受けに行くことになりました。
しかし、まさか受かるとは思わなかった。
球場には300人以上来ていました。
京都の名門校からも何人かきていました。
7人が残りました。(4人がキャッチャーでした)
テスト生は戦力になる訳ではないので、おまえらは5,6編球を受けるだけだと言われて、これを聞いた時にはショックでした。
3年経ったら6人が首になっていて僕だけが残りました。
ハンディキャップがあったので人一倍度努力しないと一軍には上がれないと思っていたので、バットだけは振りました、手は豆だらけでした。
或る時監督が掌を見せてみろと言われて、みんな怒られていましたが、私も見せましたら、監督が「野村、いい手しているな、良く見ろこれがプロの手だ」と言って褒めてくれました。
これは嬉しかったです。
服装に関しては妻から色々言われて、服装はセンスが悪いと着替えをしました。
2017年12月8日に妻沙知代が85歳で突然亡くなりました。
テーブルに頭を付いてうずくまっていました。
「大丈夫か」と言ったら「大丈夫よ」と言いましたが、救急車を呼んで病院に運びましたが、その前に息が無かったです。
急死だったので凄くショックでした。
裏には息子の家族がいたので、現在も助かっています。
3歳年上だったので、「俺より先に行くなよ」と言っていましたが、「そんなの判んないわよ」と言っていました。
男の弱さをしみじみ痛感しています。
実際に居なくなるといろんな面で感じます。
父は僕が3歳の時に戦争に行って亡くなってしまって、母子家庭でした。
母親が、僕が小学校2、3年生の時に子宮がん、直腸がんになり助からないと言うような状況だったが、なんとか助かったが肉、油類が食べられなくて、晩年は生きていました。
「ありがとうを言えなくて 妻沙知代へ」という本を出しました。
まさか急死するなんて夢にも思わなかったので。
幸せだったのかなあと言う事を一番聞きたかったが、聞けなかったので、そこが聞けなかった、そこが一番です。
「このがらんどうの人生を俺はいつまで生きるのだろう。」と本の後ろに書いている。
男は弱い、居る時には判らないが、居なくなって初めて感じます。
毎日寂しく生活をしています。
再婚したら、というふうにいう人もいますが、再婚は100%考えられない。
妻が亡くなって二つあります。
①鍵を持つようになったこと。
②帰宅時に妻がいないこと。
誰もいない家に帰ること位寂しいのは無いですよ。
1965年に三冠王と取って、1970年8月の初対面で沙知代は野球の事は全然判らなかった。
どうしてあの時あの人を変えないのとか、言うようになりました。
素人目の言葉も役に立ちました。
現役時代、講演に明け暮れた時代、ヤクルト、阪神、楽天の監督時代これが三つの黄金時代ですが、この時代を支えてくれたのが沙知代でした。
南海ホークス時代に沙知代が原因で首になりました。
或るスポーツ新聞の一面に「野村に愛人」という記事があり、評判が悪くなりオーナーに呼ばれて、心配しないでいいと慰めてもらったが。
1992年にヤクルトをリーグ優勝に、翌年連覇、日本一になる。
妻がグランドに来ては、家でのぼやきを聞いていて、その選手に「貴方しっかりしないとだめじゃない」と言っていたようです。
それを全く知りませんでした。
それで南海を首にされたと言うような事の様です。
作詩が沙知代で作曲を全く面識のない三木たかしさんに依頼して、僕が歌って「女房よ」という曲を出しましたが、これには吃驚しました。
今、解説とか新聞の原稿を書いていますが、生涯野球に携われるなんて幸せだと思っています。