2019年4月30日火曜日

増島みどり(スポーツライター)      ・「スポーツと"平成"」~前半~山本浩

増島みどり(スポーツライター)      ・「スポーツと"平成"」~前半~
山本浩((法政大学スポーツ健康学部教授)
進行;工藤三郎アンカー
プロ野球では日本選手の大リーグ挑戦や史上初のストライキ、サッカーではJリーグの発足や2002年フィファワールドカップ日本開催、相撲ではモンゴル人を初めとする外国人の活躍、平成10年には長野で冬季オリンピックが開催されるなど平成の30年間では様々な出来事がありました。

増島:1993年にJリーグが立ちあがる。
それにより地域のスポーツであるという点、スポーツビジネスと言う言葉も定着した。
1998年に日本が初めてワールドカップに出場する。
6大会連続で出場している。
山本:スポーツには運動、体育が入っていたが、平成になって競技スポーツ、生涯スポーツ、やがて障害者スポーツとある意味でスポーツの広がりが非常に大きくなった。
工藤:昭和2年(1927年)がラジオのスポーツ中継、甲子園の実況が最初の放送です。
昭和の時代にスポーツの放送が始まって、野球と相撲が主役であり続けた。
平成元年が1989年で此の時に衛星放送が始まっています。
海外のスポーツの情報がわーっと入ってきました。
Jリーグはインパクトを感じました。
増島:今は天然芝で子供たちがやっている時代になりました。
山本:昭和のは入るべからずだった。
NHKが野球以外の放送を総合TVで夜のゴールデンタイムでやるなんていう時代が来るなんて誰も思っていなかった。
そこにサッカーの放送が来るなんて思ってもいなかった。

増島:ドーハの悲劇は全員が望んでいたものが、辛い形で思い知らされた年でもありました。
山本:1992年の春にアマチュアリーグが終わって、いよいよプロだと言う事で色々やりました。
息をつく暇なくサッカーが開催されました。
工藤:日本のスポーツは決着をつけるということでトーナメント制で、リーグ戦に基づいたスポーツ文化はあまり無かったと思います。
山本:一生懸命やって休むということを考えないでやるような、それが潔いと言うような感覚があり、疲労困憊の中でドーハに向かって行って勝ち目はなかった、と後から考えるとそう思うんですが。
増島:1993年は忘れられない年でした。
あの教訓は忘れてはいけないと思う。
工藤:地域とスポーツとのつながり、Jリーグがおおきな役割を果たしたし、インパクトを与えたと思います。
増島:当初三位一体と言う事を掲げて、地域、自治体、クラブ 3つが動くようにして行くことを浸透させていきました。
山本:指導者のライセンス制度が一番充実しているのはサッカーだと思います。
経営的な面で言うとJリーグは全クラブの放送権に対してコントロールする、商品関係もコントロールする、それはプロ野球とは違うところです。
当初クラブは10でしたが、どんどん増えて行きました。
増島:1998年に初めてワールドカップに出場して世界の舞台を経験して、その年にJクラブが潰れてしまいました。
サッカーの発展を考えた時に常に明暗がありそれを乗り越えてきた。
工藤:プロ野球を平成の時代を思い出してみると、平成になる前に南海がダイエーになり
阪急が無くなりオリックスになり、親会社の経営不振により別の新しいモデルが出来て来る。
広島、日本ハム、ソフトバンク、楽天などの様に地方のチームはお客さんを集めて地域と密着しながら新しいプロ野球の形を作って行く、これはJリーグのヒントが無ければ浮かばれなかったのかもしれない。
増島:お母さんが見られるように託児所が用意してあるとか、女子トイレも沢山出来てきて居るようになった。
工藤:プロ、アマも歩み寄ってきて障壁が無くなりつつはあるが、統一した組織でいろんなことを考えて行こうと言うことにはなってはいない。
暴力、根性主義の問題から抜け出すためにも平成と言う期間が必要だったのかもしれない。
昭和の積み残した課題から抜け出しつつある時代かなと感じます。
山本:昔は新聞にはスポーツ紙面は2ページだったが、今の新聞には4ページ、あるいは6ページとなってきている。
TVでもスポーツが多く取り上げられるようになったと思います。
昔はメインキャスターはスポーツの話はしなかったが、今はメインキャスターがスポーツの話をしてそれにスポーツコーナーの人が入ってくると言うような格好になっています。
工藤:オリンピックは最大の関心事だと思いますが、
増島:女子の種目の台頭だと思います。
1984年に女子のマラソンがスタートしています。
1992年の時には山下さんがメダルを取って、女子マラソンが一気に注目されました。
女子の競技が沢山増えて行きました。
山本:平成の時代のオリンピックはサポート体制が非常に充実して行く、色んな情報を取り込みながら積極的に前に出て行った。
オリンピックのメダルが社会に与える影響が非常に大きくなって行ってしまったことが要因に有ります。
メダルを取った選手がその後も色んなところに出て行って、これは昭和の時代には無かった。
メダルを取ることで社会がポジティブになると言う事を色んなところでしていった時代だと思います。
そこに企業が入ったりして、支援をする人が入ってその価値をもっと大事にしたい、或る意味プロ化ですよね、それが始まる。
実業団では半日仕事をしたり、あるいはほとんどしないで練習に時間を費やすと言う事が徐々に出てきて、サッカーから一般のスポーツにも広がっていったと思います。
増島:取材をしていて平成に入ってから世界を身近に感じないといけないと言う思いがありました。
海外に拠点を置いたりして、海外の試合でどうやって試合で力を発揮して行くかと言う事が平成に入って大きなテーマになりました。
昭和にはありませんでした。
山本:国立スポーツ科学センター、ナショナルトレーニングセンター、アンチドーピングの問題など攻める方守る方同時に始まった時代でもありました。
増島:マイナーな競技も拠点ができたことで合宿ができるようになり、バトミントンとか卓球、レスリングなど大きな支えになったと思います。
工藤:ジュニアの発掘にもなっていると思います。