藤城清治(影絵作家) ・人生は光と影(1)
大正13年生まれ、95歳になります。
影絵作品を作り始めてから70年余り、繊細で色鮮やかな光と影の作品はアンゼルセンやグリム童話、宮沢賢治の絵本にもなっています。
戦後は雑誌、暮らしの手帳で昔話や童話などの影絵を連載し、暮らしの手帳の表紙の絵も8年間担当しました。
東京生まれの藤城さんは12歳で油絵を始め、10代から絵の才能が注目されていました。
慶応大学時代、人形劇の魅力にとりつかれ勤労動員でかり出される中、人形劇慰問班として活動、昭和18年海軍予備学生となり、多くの友人が特攻に出陣するのを見送りました。
敗戦後、何もない時代に導かれるように影絵に取り組み、「暮らしの手帳」の創刊者花森安治さんとの出会いから影絵作家として活動を始めます。
一回目は戦争の時代を経て影絵作家となるまでのお話を伺いました。
大きなライトテーブルがあり、真下から光を当てて作っています。
影絵を切る時には片刃のカミソリで切っています。
ハサミでも上手くきれないし、ナイフでも駄目でカミソリの刃であれば切れるので、切りにくい面もあるが刃が薄いので、繊細な部分と力強さと荒々しさと、無限の息使いが出来るのは、カミソリが一番いいです。
折れてしまったりするが、一日に100枚位使ったりします。
カミソリで切った線の鋭さ、微妙さが一番人の心に響くように思います。
身体を動かさないといけないと思っていて、朝と夕方歩いていて1万歩歩くようにしています。
1万歩あるくことができなくなるまで頑張って、できなくなったら駄目だろうと思って、今日一日が一番いい作品が作れる自分であり続けたいと思っています。
幼稚園のころから絵を描くことが好きでした。
無口で絵ばっかり描いていました。
慶應中学に入ってそこで絵の先生が良い先生で、有名な明治時代の偉い絵描きの仲間の一人でパリまで行った人です。
洋画のさきがけになったような人が先生でした。
高校、大学共に受験勉強が無かったので絵に専念できました。
戦争中では、僕が女性の絵を描いたりして展覧会に出したりすると、軟弱だと言われて全部没収されてしました。
でも夢中で描きました。
勤労動員されたなかで、人形劇をやって慰問の為に浦島太郎、桃太郎をやったり色んな事をやりました。
戦争中の激動の中で、人形劇とか絵を描くことが如何に人間が生きていくうえで大事か僕は思ったし、世間も癒されて、見る方もやる方も涙をながして感動して、そんな中でできました。
19歳で海軍にはいることになりました。
琵琶湖の近くで1年間訓練しましたが、飛行機も無くなり、軍艦も沈んでしまった。
九十九里浜に海軍の一番精鋭が海岸線に並んで、その後ろに陸軍の大部隊が付きました。
(聞き取りにくくて詳細は不明)
そういうなかで人形の楽しさ、素晴らしさ、絵を描くことの素晴らしさ、生きることの素晴らしさがなんとなく自然に身に付いたんじゃないかと思います。
帰ってきた時にはほとんど作っていた人形をトランクいっぱいに入れて、九十九里浜に持って行って、戦争が終わった時に海に人形をみんな流してしまいました。
これをアメリカ兵に渡したくないと言う思いがありました。
後から思うと持ち帰えればいいとは思いましたが。
光を当てて、紙切り抜いて作って影絵劇ならばできると思いました。
色を塗るわけでもなく、削ったり組み立てたりするわけでもないので、教会で簡単な話に組み立てて子供に見せることもできると言うので、影絵をやろうとすることにしました。
ひっくり返ったり、大きくなったり小さくなったり、消えてしまったり、伸びたり縮んだり、動かすと光によって色々変化して面白いと思いました。
人形劇では出来ない光と影の面白さがあります。
昭和25年23歳で東京興行(現:東京テアトル)入社。
会社勤めのかたわら、人形と影絵の劇団 「ジュヌ・パントル」を結成。
映画館のパンフレットを任され、印刷とか、表紙は僕が女優の絵を描いたりしました。
花森安治の雑誌「暮しの手帖」の原稿を頼むと言う事で関わるようになりました。
彼はファッション雑誌を最初だしていて「暮しの手帖」を出すようになりました。
「君の影絵はただの切り絵ではない、光の空間がある」と言ってくれました。