小松政夫(俳優・コメディアン) ・「喜寿を迎えたひょうげもん」
福岡県出身、77歳。
裕福な家庭に育ちましたが、中学生の時に父親を亡くして、住み込みで働きながら高校を卒業しました。
役者への夢を抱いて上京、様々な職業を転々とし、昭和39年当時人気絶頂のクレージーキャッツのメンバー植木等さんの付き人兼運転手として芸能界に入り、バラエティー番組「シャボン玉ホリデー」でタレントとしてデビューしました。
その後、様々なTV番組で活躍され、2011年からは日本の喜劇人協会の第10代会長をお勤めになっています。
77歳になりますが、本当にあっという間でした。
芸能界に飛び込みたいと思って博多から横浜の兄貴を頼って来てから、これでもう60年近くになります。
充実してたし、苦労を感じたことはないです。
7人兄弟姉妹の5番目の次男。
父親は小学校の時にPTAの会長でした。
母親は女学校の作法、修身の先生でした。
父親は厳しかった、いわゆる明治男で笑った顔はなかったです。
バターの箱に「北海道」と書いてあって、妹がどう読むのか私に聞いたら、私が「きた うみ みち」だよと答えたら父親がそれを笑ったんですが、唯一の笑う顔だったと思います。
母親は何にも文句を言わないで、風呂には父親より先に入ってはいけないとか、女は後から入るとか、いわゆる昔堅気の母親でした。
父親が一週間出張で居ないと、風呂に入れませんでした。
父親が亡くなって、借金があることは知らなくて、ビルを明け渡さなくてはならなくなって、最初は庭付に一軒家へ、庭無しの一軒屋へ、そのうち6畳と4畳半に7人が住むと言うことになってしまいました。
父親は私が中学1年の時に亡くなりましたが、高校には行かせられないから働いてほしいと言われました。
狭い部屋に女性が多い家庭だったので、定時制に通いながら住み込みで仕事をするようになりました。
配達係からケーキの職人になりました。
東京に行ってから色々職を転々としましたが、結構腕が認められました。
「のぼせもん」=没頭すること
「ひょうげもん」=面白い男、とよく言われた。
小学校から芸人になりたいと思っていたようです。
「てなもんや三度笠」「シャボン玉ホリデー」をTVでやっていまして、芸能界に入りたいと思いました。
その当時は車のセールスマンになっていて、ラーメンが30円の時代に10万円の給料を取っていてトップセールスマンでした。
結構ノルマが大変でした。
植木等は良いなあと思って週刊誌を見たら、付き人兼運転手募集の記事を見まして、これだと思いました。
友達たちに相談したら、トップセールスマンが今更芸能人のカバン持ちはないだろうと言われてしまいました。
部長に相談したら、「お前は向いているかもしれない、俺が応援する」といって出してくれました。
植木さんは検査入院していて病院先で会いました。
オーラがすごかった。
植木さんを呼ぶにあたって、どう言ったらいいかということだったが「父親を早く亡くしたそうだから、私の事をおやじさんと言ってくれればいい」と言う事になりました。
身の回りの世話をしていましたが、植木等さんを一日一回喜ばせることが、ノルマだなあと思いました。
こんな楽な仕事はないと思いました。
当時一週間で10時間しか眠れなったが全然苦にならなかった。
セールスマン時代の事ですが、50代の180cmもある大学時代には柔道をやっていた筋骨逞しい社員がいて、部長に怒られていて帰ってきて、私に向かって「みろ、お前のおかげで怒られたじゃないか。知らない、知らない、知らない」と言って身をよじったんです。
そのことを植木さんに話したら大笑いして喜びました。
ハナ肇さんとかクレージーキャッツ、プロデューサーーがいる前でさっきの話をしてやれ、と言われて話をしました。
谷さんが台本を書く時に、ここに小松登場、「知らない、知らない、知らない」をやると書いてあったんです。
それでデビューしましたが、これが私の一発目の流行り言葉です。
3年10カ月後に、「もう俺の処に来なくていいから」と言われクビかなあと思いました。
「社長と掛け合って、給料からマネージャーから決めてきたから、明日ハンコを持って事務所に行って来い」と言われて、どーっと涙があふれてきて、道路脇に車を止まめて大泣きしました。
或る日電話がかかってきて、呼び出されて「家を立てたらいいじゃないか」と言われて
建築屋さんも呼んであって、最初は家を建てるなんていう気が無かったが「親父さんが保証人前提という事だったら結構です」といったら、「いやー流石 あんたは偉い」と言われ、これが後々のはやり言葉になりました。
植木さんの家の近くの土地まで探してあって、そこまで気を使ってくれていました。
私と植木さんの付き合いは「おーい 美味しいものを作ったから飲みに来い」とか電話がかかってき、そんなん風な付き合いにずーっとなってきているんです。
植木等って凄い人だなあと思っちゃいました。(酒は一滴も飲まない人でもありました)
そのうち私にも運転手が付くようになり、まだ10年早いと言われるのではないかと思って植木さんには内緒にしていました。
或る時家に伺って、「飲んでいくんだろう」と言われたので、「運転しなければいけないので」と言ったら「嘘つけ、運転手がいるじゃないか」と言わればれて居ました。
自分でお茶とお菓子を持って運転手の処に行って「小松がお世話になるなあ、宜しく頼むよ」と言うんです。
泣けてきます。
胸の詰まる師弟関係だと思います、こんなことは今何でないんだろうと思います。
今でも植木等の庇護のもとですね。
植木関係の本を5,6冊も出していて、まだ新しい注文が来るんです。
愚痴になりますが、今の若い者の師弟関係はそれでもいいのかなあと思います。
80歳までやれれば本望だと思いますが、いつまでセリフを覚えられるかわからないので、今まで貯金してきたものを小出しにして、昔はやったものだとかを掘り起こして一人芝居をやっているが、それは若い時の独身のことなので、今度はジジイの一人芝居をやりたいと思います。
喜劇ですが、笑いの中にひっそりと涙が出るようなものをやりたいです。