2012年1月16日月曜日

坂本洋子(主婦54歳)       ・貴方と家族になりたい2

坂本洋子(主婦54歳) 貴方と家族になりたい
純平さんとの悲しい別れの後、3番目の子供を預かりました。 
耳の聞こえない女の子で、耳の聞こえない児童養護施設が有るが定員が一杯でちょっと 
預かってほしいと言われて施設が空くまで預かった子です。
障害を持つ子を預かる不安は?→
流石にそういう子とは私も出合ったことが無かったので、。不安は確かに有ました。
彼女は字が書けるわけでもないし、手話も出来ないので、彼女との会話の方法がなにも
ありませんでした。 
人間の気持ちだけで繋がっていました。

意外に人間という者は会話が無くても、気持ちは通じるものだとは思いました。 
彼女は非常に頭の良い人でしたから、いま何が必要なのかとか、そういうことが全部判って
いて、私が何か探し物をしていると彼女が本当に私が探している物をふっと持ってきて
「これ」と言ったみたいに差し出してくれたり そう言った事が沢山ありましたね。 
人が人と一緒に暮らすことがそんなに言葉が無くても出来るんだなと思いました。
数カ月で施設に行ったが、その後も家に時々来てくれて18歳まで続きました。
その後の里子も大半が障害を持った子でした。
意外にハンディーを持ったお子さんを育ててみると、あっ自分にできるかしらと思っていた
ことが意外と出来るんだなと言う事は気付かされました。

 
親が育ててくれないで尚且 障害を持っていると云う事はかなり其の子供さんは負わされて
いるものというものは大きいじゃありませんか。 
ダブルハンディーだと思いますが、彼らに取ってみてはハンディーではないと、彼らはマイナスだとは 
思っていないし それを彼らは当然のように人生、生きているわけで本当にいつも
前向きですよね。
いつも前向きに生きているけなげさに頭が下がりますよね。 
ご主人も障害を持つお子さんたちの学校の先生をしていらっしゃる→
そういう主人がいたからこそそういう決断ができたんだろうなと思います。
色んな情報を教えてくれたり、こんな本が有るよととか、いろいろアドバイスをくれるので
非常に支えになります。

他の子は?→
知的な障害もありますし、発達障害もありますし、様々です。  
その子のニーズに合わせた生活をする。
26年間で一番大変な時期は?→ 
東京都独自にファミリーホーム制度を持っていたので 東京都独自が10年 国が制度化して3年になる
13年間は多人数養育をしている。
今の高校生が小さかった頃があって、4学年(幼稚園から小学校低学年)に5人いました。 
あの時が一番手が掛っていたし大変だった。 
小さいので家に置いて「お留守番してね」とは云えなくて、何かあると一人の子供の為に10年
連れて動く、一人の通院に5人がくっ付いていくという状況です。
朝の支度は大変、学校との連絡帖を4人書く、毎日子供の体調の事、様子とか書いて学校に
提出する。
食事は夜のうちに用意して冷蔵庫に入れておく、高校生は早く行くので早班と遅班がある。 
主人が高校生、私が遅班の面倒をみる。 

洗濯は乾燥機を使ってその日のうちに全部乾かしてしまう。 
洗濯機 乾燥 →洗濯機 乾燥 →洗濯機 乾燥 →と一番洗濯機が働いている
(洗濯機は一日中動いている。)
ハンディーのある子は家庭で育つと云う事は意味が有ると思う。 
ハンディーの無い子はいつかは結婚して、自分で家庭を持つことが有るかも知れない。
ハンディーのある子はもしかしたら結婚出来ずに、一生を終える事になるかもしれない。
そうすると家庭を持つと云う経験もなく一生を終えることになる。 
私達のようにこういう家庭が提供されて、その中でハンディーのあるお子さんも家庭というものを
を味わう事が非常に大事だと思います。

いまはハンディーのあるお子さんを出来るだけ引き取ると云う事をしています。
薫さん(長女) 2歳で家に来て20歳までいました。 今は一人で生活している。 
時々帰ってきてあれちょうだい、これちょうだいと云ってきます。
家計はどうするのか?→
26年の13年間に関しては行政から頂く処置費が有るが、それでは足りなくて
全部主人が働いてきたお金でそこに補充しながら生活をしています。
子供には食べたいものを食べさせてあげたいし、色んな味わいをさせてあげたいと
思っているので、惜しみなく使うと云う事を考えています。
お金に固執し始めると、色んな事を制約しなくてはいけないと云う事があるので、 
我儘とはならない程度、世の中の普通の暮らしをさせてあげたいなと思います。
彼らは生まれる先を選べなかった訳で、もし選べる事が出来るならば両親が揃っていて
安定した家に生まれたかったと思います。

生れてみればそうではない状況に有った、その中で必死になって生きようとしている子供たち
に普通の家庭と同じような温もりや物質的なものを与えると云う事は彼らにこそさせて
あげたいなと私は思います。 
接し方で大事にしていることは?→
一杯有るが彼らは生れてから人間不信そこからスタートしている、本当に自分は生きていて 
いいのだろうかとか、色んな思いを抱えながら生きていますね。
虐待を受けた子供は特に心に傷を負っています。 
そういう子供たちがマイナスの感情を持つのではなく、プラスで色んな事を考えてほしい。
先ず私達里親が 子供たちから信頼される人間であること、そこが私は先ず第一だと思います。 

第二に子供たちは人生を終えるときに、 
自分の人生を振り返ってみて、結構いろんな事が有ったけど、生れてきて良かったかな、
まんざら悪い人生じゃなかったじゃない、そうやって人生を閉じてもらいたいので、
私は出来るだけ、子供のうちにもそうだし、ああしたい、こうしたいという事には
答えてあげようとしています。
物質的だけじゃなく精神的のも、例えば小学校4年生だった子がいるんですが、彼が幼稚園
の時に私達が親ではない事を伝えました。(真実告知という)
親子ではないと云う事を伝えるだけでなく、私達は確かに親子ではないけれども、私は貴方
を愛しているし、貴方はずっといていいんだよって言ってそう言ったことを伝えます。
告知した時に彼はこう言った、「僕ねー 世界の中でママの事一番好きなんだよ、だから 
僕が「ママ大好き」と言ったら、ママは僕の事をぎゅーと抱っこして、ぎゅーとしてね」
と言ったんですね。 

そういう事も子供の大切な要求ですから 私も判ったよっていいます。 
それから「ママ抱っこして」といったら、私は必ず膝に抱っこして、ぎゅーっと抱っこして
「ママ大好き」という彼を「私も大好きよ」って、ぎゅーっと抱きしめてあげるんです。
そういう事の繰り返しをずっとし続けています。
その中から自分だけの大人の温もりとか、この人によりかかっていいんだ
という信頼とか、そういうものが芽生えてきます。
それが子供にとってはそういうやり取りが大事だなと思います。
物心両面と言いましたが、そうやって色んな絆を作りながら子供を育ててゆくという事を、
心掛けています。
18歳が期限になっています。 
18歳でハイさよならではなくて、子供にとっていつでも帰って来てくれる家になっています。

子供同士は直ぐなじめるものですか?→
どういうわけか子供同士の方が馴染むのは早いですね。
年齢的に近い子がいる方が早く馴染んでゆきます。
全体的に同じ境遇だと云う意識が有るのではないかと思います。
26年間で子供との確執は?→
いろいろ有ました、矢張り過酷な状況で生きてきた子供たちは、私達大人に対して
怒りが出るような誘いの仕方をして来るんですね。
そのの挑発に乗ってしまうと私達も かーっとなって怒りが込み上げたりする訳です。 
その挑発に乗らないように距離を取りながらやらなくてはいけないが、抑えようの無い
怒りが噴出することはよく有ました。 
ですからそういうお子さんに対しては、わたしも有る程度までは出来ますが、 
ここからは出来ないんだという自分なりの決断を迫られると云う事は何度もありました。
ですから途中で私達の家から保護施設に移って行ったと云う子も何人かいましたし、 
中途半端に終わってしまったこともありました。 
長女は放浪癖がありました。
小学校の頃からまずランドセルを背負って帰ってきた事が無かった。 
毎日ランドセルをどこかに置いてあって、ランドセルを探してそれから彼女を探すという
事を毎日やっていました。 
どこかの公園に居たりとか、友達の家に入りこんでいたりとか 、気に入らない事が有ると
そのまんまプイとどこかにいってしまう。
これは相当大きくなるまでずーっと続きましたね。 20歳まで続きましたね。 
彼女は怒りだすと止まらないと云うところが有って、相当彼女と取っ組み合いもしましたし 
首を両手で絞められた時もありました。 
鉄パイプで殴られた事もあります。
その時に思ったのはこの子を犯罪者にしてしまってはいけない という事だけでした。 
ひどい事は沢山ありましたね、でも大人になれば段々落ち着いてきますし、今はお母さんと
いって家に来ますし、手離さなくて良かったと思います。

実の親と一緒になれたのが一人います、今は29歳になったと思います。 
今はお母さんのところで幸せに暮らしています。 
彼が高校生になった時に、引き取りたいと云ったんですけれども 子供の方が高校を卒業
したら戻るからって言って、ここで卒業したい、当時養護学校でしたけれども養護学校高等部
を卒業してから帰ると云ってその通りにして、就職して今はとってもいい関係になっています。
里親としても悩みは尽きないのでは?→
心配をあげればきりがない、2003年からですが私の家で里親サロンを開いています。
2003年に宇都宮で里母さんがお子さんをあやめてしまった、という事件が有りましてその
事件を聞いたときに、こんな悲しい事は2度と有ってはいけないと思いまして、
里親同士が気兼ねなく色んな事が吐き出す場所を作ろうじゃないかと思いまして、そこから
里親サロンを作りました。

今では里親サロンてあちこちに有りますが、(行政もその大切さを知って下さって) 
当時はどこにもなかった。
遠くから(自動車、夜行バス、飛行機)来てくれて色んな事を話し合いました 。
里親は守秘義務が有って子供の事は色んな事を話してはいけないという守秘義務が
課されている。
やたら子供の事をあちこちで話せない、又里子独特なものがある。
普通の人には理解してもらえない。
里親ならではの共感できる部分が有ります。 
サロンでいろいろ情報交換、アドバイス等をします。 
(話をするだけでも里親は気持ちがふーっと楽になって、あーっ良かったと、
明日からがんばれそうですと云って帰って行かれました)

当時は周2回、今は周1回、里親、虐待防止センターの方 、臨床心理士、大学の先生等が
参加される5人超えると制度的にサポートしてくれるようになりました。
平日5日間色んな形で助けてもらっています。
里親になってから個人の時間はない、子供と一緒に過ごせるこの毎日が宝だと思っているし 
この人生を与えていただいた事ーっとっても有りがたいと思っているんです。
子供にとっての掛け替えの無い大人の一人にさせていただいているというのは、これは何を
差し置いてもとっても有りがたい事ですね。
子供たちの成長を何人も何人も見る事ができて手ごたえ有るわけですから、 
凄い映画を見るより楽しいです。

坂本さんを駆り立てているものは?→
私はこれは自分の人生に与えられたこれが定められた道だと云う風に思っているので、子供
たちと過ごすこの日々は、なにものにも代えがたい宝だと思うし、凄い人生与えられて感謝
だと思いますね。 
子供たちと言うのは非常に前を向いて生きていて、私にとっては本当に健気でとても愛おしい
存在なんです。
彼らは文句を言えば限りなくあると思うんです。
どうしてお母さんは迎えにこないのかとか、なんでこんな人生なんだ、だったらやけになって
やるもう知らない、と言う事も可能なのに彼らはそんな文句を一つも云わず、
健気に前を向いて、自分の将来を見据えて生きている。 

私は彼らから教えてもらう事が沢山あって、彼らと一緒に生きていることが有りがたいと
思っています。
ある時、有る子供が学校の先生に「先生、どうも僕は産んだママに棄てられちゃったらしい
んだよね、でも今のママは色んな物を買ってくれるし、、色んな事を聞いてくれるし
幸せだからまあこれでいいかと思って」、と先生に言いました。
言った後に子供が「でも、このことはママには云わないでね」って言ったから、
先生は「判った。云わないよ。」っておっしゃったそうです。 
その後先生は私にその内容をメモに書いて云わないで私に渡してくださった。
8歳の子供がそう思ったのは、本当に素晴らしいと思った。 
「まあ いいか」と思ったこところをずーっと支えていてやりたい。

「まあ いいか」と言うところがが「僕の人生素晴らしかったよ」と思うところまで、私は
この子供たちを支えてあげたいんです。
大きくなった高校生の子供が或る時にこう言ったんです。
「まあ いいか」と言うところがが「僕の人生素晴らしかったよ」と思うところまで、 
私はこの子供たちを支えてあげたいんです。
大きくなった高校生の子供が 或る時にこう言ったんです。
「人は誰から生れたかなんて関係ないんだよね、どう生きたかなんだよね。
それが大事なんだよねお母さん」 
私は本当にそうやって生きてもらいたい、自分の過去、ルール、それも大事かもしれないけど 
そういうものに捉われる事無くどう生きたか、自分の事をどう活かしきったか、
そうやって生きてもらいたいし、そうやって活かしきる事ができるように、私は彼らを
育ててあげたいし、これからもずっと支えてあげたい。