2012年1月15日日曜日

坂本洋子(主婦54歳)       ・貴方と家族になりたい

坂本洋子(主婦54歳) 貴方と家族になりたい
<概要)
八王子市で親に育ててもらえない幼児院や児童養護施設の子供たちを預かって育てる里親を
1985年(昭和60年)から続けています。
この26年間で坂本家の家族になった子供たちの数は15人、その体験を一冊の本「ブドウの木」
に纏めて2005年に出版しました。
里子を預かって育ててきたいろいろな経緯、経験を語る。
今は里子が6人いる 高校3年(女) 高校2年(男) 高校1年(男) 小学4年(男) 
小学1年(女) 3歳(男)。  
26年間で15人の子供を預かって育てた。
自立した子もいれば、児童養護施設に移って行った子とか、親御さんの処に戻った子とか 
様々な子供がいますね。
私は養子縁組の里親ではなく養育の里親ですから、お子さんを籍に入れることはできない。 
お母さんの処に戻るとか、もう一回親子や家族の再統合ができる、
というお子さんも私の家に来る訳です。 
ですから親御さんの処に戻って本当に幸せになっている子供さんもいます。

養育里親になった理由は?→結婚をしたときに新婚旅行先でそういう話をした。 
もし子供を授からなければ親御さんのいないお子さんを引き取って育てようと、
数年経っても子供は授からなかった。 
不妊治療もしたのですが、何かそこに自然の摂理とは違う力が加わると云う事を私達夫婦は
あまりよしとしなかった。

里親登録をした、養子縁組の里親と養育里親が有る事を知る。 
養育里親として登録して26年がたちました。(結婚してから5年後ぐらい)
登録後すぐに花氏が来た。(研修は当時は短く 一日で終了)  
こういうお子さんですと紹介され面会をする。 
時間を徐々に長くしてお泊りしてOKかどうか決める。
「純平」(仮の名前) 乳児院に居た子供 行ったときに小さい子供たちが沢山いて
ガラス窓に集まり誰が来たんだろうって、向こうからじーっと見てるんですね。

あの時ははじめての経験でショックだった こんなにも大人を待っている子供たちがこの
世に居るんだなと、誰を迎えに来たの、誰に会いに来たの、沢山の目が同じ位置で横一列に
その目がザーッと並んでこっちを見ていた。 
あの目は矢張り忘れられない。
実の親が育てない、育ててもらえない子供たち。  
純平君は当時3歳2カ月だった。  
幼児園に迎えに行ったときにちょうど養子縁組里親が1組来ていて海外に行くことに
なっており(ハワイ)、この子は海外に行くんだなと思った。
勝手に大人の都合で色んなところで生きる場を変えてゆく。 
そういう子供の運命ってどういう風になるのだろうって、なんだか切ない想いでその子を
見送った記憶が有ます。 

親になるのは実際大変でした。 
当時28歳だったので本当に私自身がまだまだ出来た人間ではなかったので、
正直申し上げて東京都がよく私を里親として認定してくれたなと思います。
覚悟していたとはいえ大変だった、先の事を考えると胃が痛くなった。 
不安で押しつぶされるような気持ちでした。
人には十月十日という妊娠の本当に大切な時期があり、そこで母になる覚悟や親になる
と云う事など色んな事を考えながら過ごしているのでしょうが。
私にはそれが無かったわけですから、でもかんがえていてもしょうがないからやってみよう
と思った訳です。
いざ来てみると子供も大変だったでしょうし、私も大変な思いをしました。  
子供の説明は簡単には有りました、これこれこういうことで生まれたお子さんですと、 
お母さんはこういうところでこういう事をなさっていますと。 

これこれこういうことで一緒に暮らして過ごすことはできないんですと説明は頂きました。
生れてからずっと乳児院でした。
殆ど親の愛を知らないで3歳まで来ました。 
育てる上で日ごろ大変だったことは→当時は大変なことだらけでした。
車に乗った経験があまりないので車酔いが凄かった。 
全てが初めての経験、スーパーに行っても切り身 野菜が丸々有るのは初めて見る。
乳児院では料理したものが出てくる。
その前の状態とか調理している事も知らない。
卵を取って落としてみたり、ラップで包装されたものに指で穴をあけたり有とあらゆること
をしていた。 
公園にいっても一緒に子供たちと遊べなかったり、彼は初めてこの世の中にデビューしたもの 
と言える。
私も親としては初心者だったので私も非常にドキドキの毎日でした。 

幼稚園には情報を聞きながら入れた、集団に入ることはよくわかっていなかった。 
集団生活は知っているはずなんですけれども、生活をすると云う事と幼稚園は別物なので
彼にとっては戸惑う事が多かったようです。 
お弁当を持ってゆくわけですけれども、友達のお弁当を食べてしまったり、お友達のものに
自分の名前を書いて自分のものにしてしまったり、人のものと自分の物の区別ができない、
という事が有りました・・・乳児院の生活が投影されてしまっていた。
乳児院では誰のものをつかってもいい、みんなの物である。 
一緒に使うと云う生活でしたから彼にとって人のものと自分の物が有ると云う生活はして
いなかった。

家の子が幼稚園バスから降りた時に靴下を履いてなくて、どうしたの靴下は?といったら 
あっと云って友達のマンションに行って靴下を履いてきた。 
何故こんなことをするんだろうと思った時に、彼の乳児院の生活では誰がなにを着ても
いいと云う事になっていた。 
幼稚園では問題児になっていて先生から涙ながらに訴えられたし、小学校でも大変だった。 
当時引け目がなく堂々と生きてほしいと思っていたので、前面に押し出す気持ちが有ました
けれども、当時は養子縁組ではない里親なんていうのは知られていなくて、説明をする
ところからしなくてはいけないと云う辛さはかなり大変でした。 
純平さんのトラブルは段々世の中の目が育ってゆくに従い厳しくなった。  
私や子供たちが悪いわけではないのに、貴方達は悪いと云われることが増えてきた。
理不尽だなあと思うような扱いも沢山ありましたし、小さなトラブルが沢山有った。 

友達のランドセルを隠したとか、後ろからランドセルを引っ張って転倒させたとか、
そういう事が度重なっていくに従って、厳しい事を沢山云われるようになって、施設から
来たからああなんだ、あの子は里子だから違うんだと相当言われました。
あの当時の事を思いだすと、よく世の中の人達はあれだけの事を小さい子供に対して厳しい
事を言うなと思いましたし、又学校の現場はどうだったのかというと、現場でも先生たちは
決して優しいとは言えなかったですね。 
普通の子供達の事が先ず頭に有って、トラブルを起こす里子に関しては気の毒だとは思って
いても、その子に対しての特別な手当てというものはされませんでしたね 
当時私達夫婦は学校に伺って色んな事を相談したんですけれども、学校の方からお返事を
いただくのは、お宅のお子さんだけは特別にすることはできません、という事はよく言われた。 
案外今も言われる。 
子供たちは私達の家庭に来る前に本当に色んな重荷を背負っていて、そのことからいろんな
ものを身につけている。
 
そこに対する配慮をしてほしいとお願いをしているだけなんですけれども、特別扱いは
できませんという返事を何度も頂いて、じゃあどうしたらいいんだと途方に暮れる事
が沢山ありました
彼自身も辛い思いをしてご夫婦も地域から偏見というか、受けながら子供を守らなきゃとの
思いがいりました。
→しかし残念ながら守りきる事が出来なかった。
この26年間、どこでどうしたら良かったのか、ずーっと私に付きつけられた宿題で答えが
まだ出せていない感じですけれども、そんなことまで言われるのかと地域の人達に言われる。
「でも」と言いたいが言わせてくれない世の中の現実が有って、地域の目が有って自分では
理不尽だと思いながらも「申し訳ありません、子供にはよく言い聞かせますから」と言って
頭を下げ続けました。 
(頭を下げるのはタダだから この子を守れるのなら下げ続けよう)

結果としてはあの子を守り切れなかった。 
小学校2年の時には無理という事で子供を手放すことになる。 
学校に行かなくなる。(私達も学校にいかなくてもいいと思った) 
子供が痛んでゆく姿を見るともう耐えられなかった。
どうしたらここをクリア出来るのかを本当に色んな事を考えました。
なにも答えを見つけられず 誰も手を差し伸べてくれず 最終的に学校を休ませること
に決めました。
休んでいる時には穏やかに過ごすことができたが、学校に行っていないと云う事が児童相談所
のほうからまずいと云う事でした。
(通学させる事が親の役割)
当時は学校に行かない事はとんでもない事だった。


2人目の里子もいた。(女の子) 
幼稚園の子供が見聞きしたので彼女は本当に痛んでいると思います。 
一緒に風呂に入った時に、彼女は私は大きくなっても結婚しない、私が子供を産んだら
又私と同じような子供ができるだけだって、幼稚園の子供が言ったんですよ。 
私は胸がふさがりました。
私達の存在はこういうものなんだ、彼女なりに幼な心に思ったんでしょうね。
純平さんは養護施設に戻り、小学校まではそこにいた。 
教護院(児童自立施設)に移ることになる。  
生活が落ち着かないと云う理由で、その間私達の家に休みの日はしょっちゅう戻って
来ていました。(この家の長男は僕だ、親の面倒は僕がやる、と云っていた。)

彼が帰った後はトイレが、浴槽が綺麗になっていたりして、恩返しというかお礼の気持ち 
というか、出来る事を一生懸命にやってくれました。
彼は17歳で亡くなりました。  
いまだに咀嚼できない苦しみなんですけれども、15歳で自立したがいい仕事が有るわけ
ではなし、その時にバイクに乗っていてヘルメットを被っていなくて交通事故に会って
即死しました、いまだに納得できない。 
もう里親を止めようとは思わなかったのか?→こんなに里親って辛い思いをするんだったら 
やっぱり止めようかなって心がへこんでしまうし、心が砕けてしまうという事は有ります。
そう思うんですが、私は他の人生へのスイッチを入れ替える事が出来るんですよ。 
ここでやーめたと云って止める事が出来る、選択が出来る、でも彼らは選択がない。
こうやって生れてしまった、それを背負って生きて行かなくてはいけない。
その時に彼らには後が無い、私にはまだまだ他の事を選択できる余地がある。 
貴方達の事はもう見ないとは私には出来なかった。