青木 功(プロゴルファー) ・ 〔スポーツ明日への伝言〕 なぜ私は世界を目指したのか
青木 功さんは日本のプロゴルフ界の第一人者であり、1983年のハワイアンオープンで日本人として初めてのアメリカPGAツアーで優勝するなど世界の青木として海外でも活躍し、2004年には日本人男子ゴルファーとして初めて世界ゴルフ殿堂入りを果たしています。 今年8月31日に82歳になった青木さんは、プロテスト合格が1964年(昭和39年)で、プロゴルファー生活も60年になりました。
東京オリンピックの年にプロになりました。 松山選手の銅メダルですが、当人としては常に日本代表という事は頭にあったと思います。 2021にやった時に、負けた悔しさ、国を背負ってという事は並大抵のものではないと思います。 私は1973年にワールドカップに中村通君と行って、1983年ぐらいにジャンボとベネズエラに行って、中村通君とはスペインに行きましたが、日本代表というのは凄く重いですよ。
1962年にプロテストを受けましたが、落ちてしまいました。 1964年の2月に一次予選、3月に二次予選、4月に予選、5月に本番でした。 日本海外合わせて85勝。 初優勝に7年掛かっています。(30歳) 研修生の時には1万5000円の給料でした。 プロになると3万5000円になり、楽に暮らせるようになり、練習もしないで4年ぐらい遊んで暮らしていました。 先輩から言われてトレーニングをするようになりました。 1983年の日本オープンで優勝。 フックボールをスライスに直すためにたまたま零下3℃ぐらいで、雨も降ってきてそのなかを4,5時間ぶっ通しやってそれで直しました。(その日に直さないと直らないと思っていました。) ご飯を食べる時に手が開かなくなりました。
1976年賞金王、4年連続賞金王、そのころから海外に出かける。 1978年、「世界マッチプレー選手権」で海外ツアー初優勝。1980年、全米オープン2位。4日間「帝王」ジャック・ニクラスとラウンドし、死闘を繰り広げた。1983年、ハワイアン・オープンで、日本人初の米国PGAツアー優勝。84年オーストラリアで優勝。 当時はお金を稼ぐのには日本が一番大きかった。 海外の人がどのようにゴルフをやっているのか、好奇心がありました。
その間に結婚をして妻が英語が出来たので助かりました。 アメリカに行った時には一か月半ぐらいで5試合ぐらいやりますが、4試合連続で落ちた時もありました。 ピザ屋でしか食事をしないこともありました。 最後に予選を通過した時には優勝したみたいな気分になりました。 アメリカでは簡単にはゴルフを受け付けてくれない。
英語は余り出来ないのでコミュニケーションを取るのが大変でした。 1995年シニアのメジャータイトルをかけて再度ジャック・ニクラスとプレーオフまで行って、2位になりました。 ジャック・ニクラスと7,8回プレーしましたが、一回も勝てなかった。
南アフリカに行きました。 当時アパルトヘイトの人種隔離政策があって、日本政府は渡航、文化交流も禁止の時代でした。 当時の外務大臣の安倍晋三さんからはビザは出せないと言われましたが、でも先生に「スポーツには国境があるんですか」と聞きました。 しばらく考ええて「そういえばないな」と言って、貰う事が出来て出かけました。(妻と娘も一緒に行きました。) 言ってよかったと思います。 その翌年アパルトヘイトは解除になりました。
グレッグ・ノーマンと会った時に「功も俺もビジターだな。」と言ってくれました。 お互いが訪問客だなといって、一生懸命やろうということで一緒に回りました。 その後84年にアパルトヘイトに行った時に、功と妻と娘が住めなくなったら住まわせてやろうと言って、自分の棟の隣の家を買ってそこに住まわそうとして、我々の為に買ってくれたんです。(解除になったので家は売却したそうです。) 彼とは親友です。
海外では初めてのコースなので、芝をつまんだりいろいろやっています。 自分が苦しんでいるのなら、他の人はもっと苦しんでいるはずだと思った時に気が楽になりました。 行ってはいけない方向に行ってしまうのは、よけようとするから行ってしまう。 もう一寸飛ばそうと思うと、余分な力が入って身体が開いたり手がぶれたりします。 練習をやって如何にに自信を持つか。 プロになるのが遅かったので、5年を追いつくには人が寝ている時にやりました。 歌とゴルフはいくつになってもできると思います。 やれるうちはやりたい。