2024年9月11日水曜日

室積光(作家・俳優)           ・知ってほしいから書き続け、演じ続ける

室積光(作家・俳優)           ・知ってほしいから書き続け、演じ続ける

室積光さんは勝弥さんから聞いた戦争体験などを元に、舞台作品などを執筆し、時には自ら演じながら当時生きた人々の足跡を伝えようとしています。 俳優としては本名の福田勝洋の名前でNHKの連続テレビ小説「まーねえちゃん」や大河ドラマ「山河燃ゆ」などのテレビドラマで活躍、特に「3年B組金八先生」の体育の伊東先生役で広く知られる存在になりました。 46歳の時に作家としてデビュー、出身地の山口県光市に拠点を移し、テレビドラマ化された代表作「都立水商!」など話題作を多数執筆する傍ら、主宰する劇団「東京地下劇場」でご自身が執筆した舞台作品の上演を中心に活躍しています。 室積さんの父勝弥さんは太平洋戦争でパプアニューギニアのブーゲンビル島に赴きました。 多く成仲間が命を落とす激しい戦いを潜り抜け、帰還を果たします。 しかしブーゲンビル島で戦っていた室積さんの叔父は帰らぬ人となりました。  父から聞いた過酷な体験を次の世代に伝えなくては俳優として、作家として作品に命を吹き込み続ける室積光さんにお話を伺いました。 

父から戦争の話を聞いて面白い人が出てくるので、その後どうなったと聞いたら死んだという事で、その連発でした。 後になって父の戦場が過酷なものだったという事が判って来ました。 沖縄糸満出身の人が素潜りが得意で魚や貝を取ってきて、その人たちのお陰で父などは命が助かっているんです。 ブーゲンビル島に行ったのが59人で帰ってきたのは6人でした。 沖縄出身のその人は帰ってこなかった確率が高い。 その人は私にとっても命の恩人です。 その人はどうなっているのか一生懸命調べてはいるんですが。 

大学で世界史の中の自分の立ち位置を考えていて、空間と座標の中の一部分にすぎないと思って、恵まれた空間の中で、何かやってみようと思い劇団に入りました。 小中高の学校の生徒にいいものを提供したいと思って、劇団を立ち上げました。 「遠い約束」という芝居を書いて、戦争にまつわる少年たちの友情の話ですが、その後に「はだしのカッちゃん」というのに叔父を登場させました。 取材をしなければいけないという話になって、ソロモン会という会に参加して、3回目に現地に叔父の慰霊を立てました。 会ったこともない叔父を身近に感じるようになりました。 アルバム、日記を観て、叔父はサラリーマンでありながら兵隊として死んでいった。 同行した人たちが手紙を読んで、初めて「おとうさん」といって泣いていました。  

叔父の日記で父と同じ歳の従兄弟が居まして、昭和14年に中国に出征します。 叔父が東京駅まで見送りに行っています。(叔父は19歳) 大学に入れれば兵隊にならなくてもいいので、「頑張れ」と言われていたそうですが、受験を失敗して言い出すことが出来なかった。駄目だったという事をはがきに書いて出す訳です。 行き違いに従兄弟の戦死の連絡があり、叔父はしばらく手紙を出さなかったから薄情奴だと思っていたのではないかといった記述がありました。 叔父自身もその6年後に戦地で飢えて死ぬわけです。 

さらに取材を重ねて肉付けし2017年には小説として発表。  そのあらすじは、昭和8年戦友だった5人の同級生が「私の将来」と題した作文を校庭に埋め、50年後に開封することを約束する。 しかし太平洋戦争で予想もしなかった方向に動き出す。 唯一生き残った林健一は記録係として友がどう生き、どういう夢を見ていかに死んだのか、事実を語り継いでゆく。 叔父の生きて来たことがどんどん鮮明になっていきました。 日記も読んだので人格が鮮明になって行きました。 

お芝居を観て、小中学生が私に伝えてくれるのは、如何に自分が恵まれているかわかったという、それこそ伝えたかったという事です。 今学べる幸せ、不登校とかあるが、立ち上がって欲しいです。 「はだしのカッちゃん 」を書き上げます。 夢を持つことができる今の平和のありがたみを感じて欲しい、そんな室積さんの思いを込めて、児童書として出版されました。 カッちゃんは叔父さんがモデルです。 日本は新幹線、東京オリンピックがあり凄く発展しているのに、かつての戦場だったブーゲンビル島などの島はほとんど変わっていない。 戦闘機が見えるところに沈んでいて、ロッキードの機関砲の薬きょうが落ちていて簡単に拾える。 これはショックでした。 発展とか変化に伴って痛みを忘れるのはいかがなものかと思います。 

パプアニューギニア本島の方では、日本の兵隊が行き倒れたまま、骸骨が軍服を着ている。そのまま何十年も。 ブーゲンビル島だけでも3万人ぐらいが亡くなっている。 主人公に語らせているあの気持ちだけでも意味があると思っています。 (「カッちゃんの骨は今もブーゲンビル島の倶利伽羅峠にあって」という描写がある。) 慰霊祭では手紙を読んで、皆で「故郷」を歌うんです。 当時兵隊たちが歌っていたそうです。 切なくなるのは「夕焼け小焼けで日が暮れて」と歌い出して、「お手てつないで皆帰ろう」というところです。   ブーゲンビル島に向かった最後の補充兵は860人で、すでに若い人はいなくて子持ちの年代層で、彼らは半年ぐらいで栄養失調で亡くなっている。 そのなかで生きて帰ったのは8人です。 何で出したのか、理不尽な話です。 現地の子供に歌を教えて亡くなって行った優しいお父さんたちでした。

叔父は砲兵隊の観測兵でした。 叔父が亡くなったのは昭和20年5月7日でした。   父に伝わったのが5月11日でした。  5月末に最後の決戦になるが、延期になるんです。 最後に8月末という事になるが8月15日に終戦になります。 父も自分はもうすぐ死ぬなと思っていたそうです。  生きて帰れると言う事になってから、悲しさと弟を含めた死んだ戦友への後ろめたさみたいなものがを抱えたようです。 親が戦地に行った我々世代は聞き出さなければいけなかったんじゃないかという悔恨はあります。 

この作品の支援会があり、客席からの波動が凄かったです。 それにつられて泣いてしまいました。 感情のキャッチボールみたいなものが、客席と舞台であり、それが一番の手応えでした。 

戦争の動機はなんだかんだと言って全て経済だと思います。 サザエさんは昭和21年4月から連載が始まって、昭和21年2月から日本人の幅員が始まっています。 あの時代は数多くの父を失い、夫を失い、弟、子供を失っていた女性がいたわけです。 サザエさんはそのすべての人に囲まれた幸せな人なんです。 長谷川町子さんがどう意識していたのか判らないが、いまだにサザエさんは放送されています。 サザエさんの幸せを日本人が手放さない限り、日本人は戦争を起こさないと思っています。 子供も残せずに戦争で亡くなった人は忘れられてゆく。(墓すらもない人がいる。)