2024年9月4日水曜日

山根安行(八重山古典民謡師範)     ・平和への思いを民謡にのせて

 山根安行(八重山古典民謡師範)     ・平和への思いを民謡にのせて

山根さんが語るのは79年前の沖縄県の八重山地方、石垣島で蔓延した戦争マラリアの悲劇についてです。 太平洋戦争の末期の沖縄戦当時、八重山地方では激しくなるアメリカ軍の空襲に備えて、旧日本軍の命令で住民の多くが山間部に強制疎開させられました。 そこはマラリアが蔓延していると地元では知られている地域で、その結果マラリアによって3600人余りの方が犠牲になりました。 戦争マラリアと呼ばれています。 石垣島出身の山根さん家族も疎開した山中で戦争マラリアに罹り、母親や家族を亡くしたほか自身も生死の境をさまよいました。  山根さんは当時の忘れられない記憶や、戦後に培われた平和への思いを自ら作った歌詞に込めて歌い続けています。  歌に平和への思いを託し続ける山根安行さんに伺いました。

1944年10月10日石垣島でもアメリカ軍の爆撃機による空襲が始まりました。 山根さんの石垣島に有った陸軍の飛行場の補修工事に駆り出されと言います。 1945年6月旧日本軍から石垣島の住民に避難命令が出されます。 疎開先は以前よりマラリアの発生地として恐れられている山中でした。 山根さんは母親、義理の父親、3人の弟妹、祖母と一緒に山中に避難を余儀なくされました。 

軍の命令は絶対でした。 簡単な小屋を作ってそこに入っていました。 下は地面でした。 食べるものが無いので芋を掘り起こして、大きなものは軍に納める、小さいものは貰ってもいいという事でした。  木も皮をむいて中の木をスライスして乾燥させて、石うすで挽いて粉にして食べるんですが、十分乾燥しなうちに食べた人は命を落としています。  

蚊が多い一か月十分に食べるものもなく、不衛生な環境の生活が続きました。 その後戦争が終わって山を下りる事になった山根さん、その時には自分自身と母親がマラリアに罹っていることに気付きました。 寒気がしましたが、畑には行っていました。 その後熱くなって一升瓶に水を半分ぐらい飲み、汗も噴き出てきました。 母親は「もう駄目だから、お前はおじさんのところに行きなさい。」と言われました。 一緒にいたら自分も亡くなっていたと思います。 おじさんの元で看病の末一命をとりとめました。 しばらくして母親のところに行ったら息を引き取っていました。  母親は本当に可哀そうでした。 母のことを思うと毎日泣いています。 

20代を沖縄本島で過ごした山根さん、アメリカ軍の警備員として働き、無我夢中で毎日を過ごしました。 故郷を離れた山根さんの心を支えたのは、三線と故郷の民謡でした。   八重山地方を代表する民謡で恋人や故郷を思う気持ちを歌いあげた「とぅばらーまを歌って自分を奮い立たせたと言います。  お金もないので故郷に帰る手段もなかったです。   

50歳を過ぎてようやく自分の時間を持てるようになったころ、山根さんは小さいころから親しんでいた三線を始めました。 夜遅くやるとうるさがれましたが。  故郷を離れ40年あまり、マラリアで亡くなった母親への思いが募って行きました。 戦争なんては有ってはならない。  酷い目にあう人を二度と出したくはないです。 

山根さんが考えたのは平和への思いを歌う事でした。  山根さんは沖縄で親しまれている歌にオリジナルの歌詞を付けました。 その一つに琉球古典音楽の楽曲の一つで、「散山節」があります。  母のことを歌っています。 

*「散山節」 三線、歌: 山根安行

山根さんは2014年には八重山古典民謡の師範にまでなりました。 今90歳を過ぎ自身の人生を振り返ることが増えたと言い、亡き母への思い、平和への願いを歌詞にして民謡を歌います。  「お前は死ぬな。」という母の一声で今の自分があります。 世界一の母だったと思います。 「命が宝だ。」という事を強調するために歌詞のなかに入れています。 歌というのは人に勇気を与え奮い立たせ、慰めます。  100歳まで歌って世界に届けたい。 

*「じんとうよう節」 三線、歌: 山根安行

沖縄の民謡の一つ。一歌詞の末尾に「ジントウヨウ」とはやしことばがつく。よく歌われる歌詞は「いかな山原ぬ枯木国やてぃんよ無蔵と二人なりばジントウヨウ花ぬ都」。替え歌も多い。戦後のはやり歌として「国頭じんとうよう」がある。