2015年6月3日水曜日

佐藤愛子(作家)         ・91歳 書き続け、たどり着いた人生の晩鐘(1)

佐藤愛子(作家)       ・91歳 書き続け、たどり着いた人生の晩鐘(1)
昭和44年「戦いすんで日が暮れて」で直木賞を受賞、平成12年には12年間かけて取り組んだ3400枚もの長編小説「血脈」で菊池寛賞を受賞されています。
昨年12月「晩鐘」を出版、この作品は45年前受賞した「戦いすんで日が暮れて」に連なる、かつて夫だった一人の男の姿を追求した小説で、90歳を超えて書き上げた円熟の小説と評判を呼んでいます。

88歳から「晩鐘」を書きはじめる。
50歳の時に貴方は90歳まで生きられると言われたが、その時は実感が無かったが、88歳になっても人生の終りに来ているとの自覚は無かったが、突然そのことを思い出して、あと2年しか生きられないと、愕然とする思いが有った。
こうしてはいられないと思った、このままでは死ねないと思った。
かつて夫だった田畑麦彦さんとの出会いから別れまでを書いたのが「晩鐘」で、「戦いすんで日が暮れて」は始まりです。
夫をどう理解すればいいかという問題がずーっと有って、いろんな現象が次々に起きて、夫婦喧嘩が忙しくてじっくり彼について考えると言う暇が無かった。
別れてしまったあと、作家に成れたのは彼のおかげだったとの思いがずーっとあるんです。
私の人生は彼に依って半分は作られたと言う思いが有ります。

本もあまり読まないし、文学少女ではなかった。
結婚してうまく行かなくて、独りになって一人で生きていかなくてはいけなくなって、性格的に協調性が無くて、母が考えたが、何にも出来ることが無いと思っていた。
夫の事(夫はモルヒネ中毒だった)、姑等の事を手紙に書いて送っていたが、父(小説家の佐藤紅緑)はそれを読んで、愛子は嫁に行かせないで物書きにした方がいいのではないかと言っていた。
母からそのことを言われて、それから書く様になった。
女学校卒業の時に日米戦争が始まった。(軍国少女だった)
文章に対する感性は持って生まれた血の中に有ったのではないかと思う。
ちょっと誉める様な人もいて、「文藝首都」という同人雑誌に入る。
田畑麦彦氏も入っていた。
「ロマンの残党」と名前を付けたグループが出来てそこに入って、其仲間に対して感謝している、いろいろなことを学んだ、詰まらないことを書くとぼろくそに言われることが勉強になる。

すこしずつすこしずつ進んでいった訳で、長いこと下住みみたいな生活で非生産的な生活を送っていた。
田畑麦彦氏と共に花札をやって、田畑麦彦氏が帰ることになりバス停まで見送りするシーンが有るが、現実との断絶感覚が自然描写と共に描かれているが、この部分は苦労した。(繰り返し書きなおした)
母とけんかをして家を出たので自分で稼ぐしかなくなって、働きに病院に行って、その帰り築地のその頃は川がいっぱいあり、橋を渡って電車賃を倹約するために銀座の方に歩いてゆくが、真っ赤な夕日が沈んでいくのを見て、一体いつまでこのように夕日を見るのだろうかと思ったが、河野多恵子さんも同じような思い出が有り、其れを書いているので思い出して胸が痛くなったと、よく話をしていた。
皆認められるまでは、そういう想いを抱えて暮らしているんですよ。

私は自分のために書いているんです、生きるために書いているんです。
段々判らないことの方が多くなって、歳を取って厄介なのは本当に正確に言おうと思うと言えなくなってしまう。
何を書いても結局は作家は己を語ると言う事に結果は成ってしまう。
「晩鐘」でも初めは田畑麦彦を書こうとしたんだけれども、結局は杉という女が如何に変な女かというのがよくかけていて、辰彦を書いているうちに杉というものが出てきて、己を語ると言う事になってくる。
人間という者には、悪い可能性、良い可能性も無尽蔵に秘めていて、そんなものは判りっこないと思う。
人間はいうにいえない自分でもわからないものを抱えて生きているのではないかと思う。
「晩鐘」は、かく生きたという事実だけをうけいれるだけでいいんだと言う結論で、それでいいのだと思います。

我々は現象だけを見て、憎んだりするが、憎しみ、怒り、非難とは別に何故こういう人間ができたんだろうと、彼(麻原彰晃)はそういう自分をどう思っているんだろうと、好奇心としか言いようがない。
私はあらゆる人に対してそう思います。
「晩鐘」 人間をもっと判りたい、あえて言うなら人間そのものへの愛情だと思います。
ホームレスの人を見ると何故かしら、お友達になりたいと思う。(どう歩んできたのか?)
駅のホームの反対側に見るからにホームレスと言う老人が立っていて、よれよれのマンガの本を読んでいて、突然大きな口をあけて、ワハッハッハッと一人でわらっていて、彼を笑わせたマンガはどういうマンガだろうと知りたいなあと思っちゃう、思うに任せぬ日々の中であそこまで笑える時間があったという事は胸が暖かくなるような思いがして、今でもその人のことが忘れられない。