佐藤愛子(作家) ・91歳 書き続け、たどり着いた人生の晩鐘(2)
作家の田畑麦彦さんと結婚、娘も生まれ作家としてこれからと言う時に、田畑さんが興した会社が倒産して膨大な借金を背負う事になります。
夫はこれ以上迷惑をかけないために、形だけと言い、佐藤さんと離婚、しかし別の女性と再婚したことが判ります。
佐藤さんは元夫の借金を背負い、一人で娘を育て生きていきます。
生きるためにひたすら続けた40歳代から伺います。
借金返済は?
戦場の様なものですから、辛い思いをしたのは娘だったとしみじみ思います。
倒産したのは娘が小学校2年でした。
辛い時戦争当時の歌を歌った、私の応援歌みたいなもの、愚痴みたいなもの。
「どこまで続く、ぬかるみぞ・・・・」
娘も修羅場に巻き込まれたわけで、生きてゆく上での強さになってくれればと、それだけを祈るような思いだけです。
苦労話をして泣いたりする人は割にいるが、それと対極のところにいるわけです、何でもおかしくしてしまう、生きるための佐藤家の知恵だと思います。
或るとき夫にバケツの水をぶっかけて、掴みかかってくるだろうと思って階段を上って行って「恥しらず」と叫んだら、「何だよう靴の中に水が入ってしまって脱げないじゃないか」と下で言っているが、それはおかしいでしょう、悲劇を喜劇に変えてゆく、佐藤家の血ですね。
3/4は父の激情、1/4は母の理性を受け継いでいるのではないかと思う。
母は評論家タイプだった、アメリカとの戦争を始めた時に、父は日本は勝つに決まっていると言っていたが、母は顔をしかめて、負けるにきまっていると、地図を見れば判ると(国土の大きさの差、国力)、戦争をして勝てる訳が無いと言っていた。
何とか小説を書けてこれたのは、父と母のお陰だったと、今は思える様になりました。
小説を書く上に必要な感性は父から貰ったと思います。
「晩鐘」の中に出てきますが、辰彦の2人の友達が家を抵当に入れさせてくれて、そして倒産して、其人の家は取られてしまうが、何とかして救わなければいけないと、これは父から受けた考え方だと思います。
無謀なことで、1000万~2000万円の肩代わりの借金をしょっていて、その上に金貸しのところに行って、1500万円借りてきて、その二人を助けなくてはいけない、直木賞を貰う前で返せることが出来るわけないが行動した、これは父の影響です。
二人の家庭には子供がいて、そうせずにはいられないと言う衝動だけです、理屈ではない。
この私の性格には、母は恐ろしくて一緒にいられないと言う事でした。
父はすべて激情、恋も怒りも、人を助けるときにも、後先を考えずに行動する。(私の中にもある)
そのことを書いて直木賞を貰えたわけで、だから借金を返せるようになったわけで、我ながらぞーっとします。
文壇付き合いはしていない、出来ない。
特殊な価値観の持ち主だと思う、相手がそれを判ってくれれば深く付き合えるが、判らないだろうなあと言う気持ちがいつもあるので、一人でいる方が楽だと言う方に成ってしまう。
私はこう生きると言う事は言えるが、こうしなさいとは言えない。
孤独な老人は核家族になって、増えてきたと思う。
大家族のマイナスがあったので、それを無くそうと言う事だと思うが、物事は一つよければ一つ悪いことが必ず伴うので、どっちの悪さを選ぶことだと思う。
かつて介護は身内の問題だったが、核家族になって社会の問題になっている。
歳を取ってすることが有ると言う人は幸せだと思います。
いなかの生活は年寄りでもすることがいろいろあり元気だが、都会の生活はすることが無い、だから孤独と向き合う、まぎれるものが無い。
大家族の時には年寄りの役割が有ったが、今は孤独の問題がある。
仕事が一段落して、のんびりしてくださいと言われるが、私はのんびりする事はどうする事か判らない人生を過ごしてきたので、どうする事か教えてもらわないと判らない状態だった。
最近はすることが無くて、TVも見る気が無いし、段々鬱病の様になって来て、人間働く様に出来ているんだなと言う事がつくづく判ってきた。
定年退職した人は鬱病になったりするが、生活のリズムが無くなるから。
リズムを取り戻さないといけないと思っていたら、「晩鐘」の出版後のインタビュー等が一日おきにあるような生活が続いて危機を脱した。
のんびりは生きている実感が無い。
苦労から逃げないで、かく生きたと言う事だけです。
逃げないでいると力が付くんですね、逃げていると力がつかない。
倒産した時に、家は取られるし、同窓会があるが行く気がしなかった、どうしようかと思ったが、無理してでも行きなさいと通っていた整体の先生から言われて、行く事にした。
夫が倒産したと言うのによく来られるねと言われた。
(釧路地震情報)