保阪正康(作家・評論家) ・昭和史を味わう 第17回太平洋戦争の日々(3)
兵士たちの姿
昭和史を語り継ごうと思うと、戦争が中心になり、軍事を勉強しないといけないと思って、軍事とはどういうものか、素人の眼から見て判り易く解説して行こうと思って研究してきた。
一般の人は一番下が二等兵、戦いの現場に立たされて苦労する。
大将は陸軍大学校をでたエリートが、軍の中で出世して行って辿り着くポスト、50代後半、60代で自分たちが戦争を指揮をする。
兵役の召集が来て一日目はお客様扱いだが、2日目からはガラッと変わって厳しい制裁、命令、軍隊内部の暴力を含めて、軍そのもののなかの一番下の階層に置かれる。
自分と言うものを全く出せなくなってしまう、それが兵隊教育でもあった。
考えずに、命令に従え、と言うのが兵隊教育だった。
昭和16年1月に陸軍大臣東条英機の名で軍内に受達した「戦陣訓」が有る。
昭和の軍隊の基本的な精神になっている。
捕虜にならない、玉砕 戦う以外になかったといわれる。
「戦陣訓」
序 本訓その1 本訓その2 本訓その3(二つに分かれていて、①戦陣の戒めが9条、②戦陣のたしなみ9条) むすび
日中戦争が始まってしまっていて、一生懸命戦わないとか、モラルの低下があり、兵隊教育を根本から立て直すという事で東条陸将時代に作られたと思う。
「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」 最も有名な一節。。
捕虜になってはいけない、死ぬまで戦え、一生懸命戦わなければ、家族、出身地の共同体が咎を受けるので、兵士たちにすれば自分だけではなく、家族、郷土の栄誉も傷つけるという事が有って捕虜に成れないという事だと思います。
軍事に反する事は全部つぶされてゆく、ヒューマニズム、戦争に対する大義的な意見等は全部つぶされる。
国家全体が総力戦で戦っているので兵士たちに要求されるものは、とりもなおさず国民全部に要求されるものであると言う風に形が段々変わってくる。(国民の心も縛る)
東条英機に対して不快感を持っている軍人もおり、石原莞爾は兵隊に対して読む必要が無いと言っていた。
戦陣訓の文章は最後に島崎藤村が直したといわれている。
軍は一般の招集兵と職業軍人に大きく分かれる。
職業軍人は13歳で幼年学校、18歳で士官学校、原隊に戻って将校の訓練を受けて、30歳前後にうける権利があって、海軍兵学校、陸軍兵学校等を出た人達。
連隊は郷土出身者で作られる。(郷土連隊同士を競わせる)
アメリカの軍隊はある時間内は階級を守るが、それ以外はかなり個人と個人が会話するが、日本の軍隊は24時間階級の差がずーっと続く。
日本は100%個人の自由が無い。
日本では精神力で戦え、と言う様なことが有るので精神力至上主義になってゆく。
昭和10年代の日本の軍人は精神力を説く人が偉くなっていった。
東条英機は宝生流ワキ方の能楽師として盛岡藩に仕えた家系の家に生まれた。
父親は明治維新にかかわって、南部から東京に出てきて、陸軍教導団(下士官の養成所)に入って西南戦争に参加活躍する。
父親は陸軍大学第一期生で成績は一番で卒業する事になる。
父親は出世が遅れ、大将になれなかったことを、東条英機は長州閥に睨まれたことが原因と終生考えていたという。
従って東条英機も長州閥を嫌っていた。
東条は精神論を繰り返し繰り返し偉くなるたびに言う。
「戦争というものは負けたと思った時が負けだ」という、「そうではなく負けたと思った時は負けるので、常に精神力では常に優位にいる、勝つという気持ちでいないと駄目だ」、というが、これは矛盾したことである。
国家の責任者が戦争の時に、もっと客観的にものを言わなくてはいけないのではないか。
サイパンが落ちた時(昭和19年7月)、その後結局、東条は失脚するが「なーにこれぐらいの事、大したことはない、泥水がちょっとひっかけられたようなものだ」と、強気のことを言っていた。
昭和19年7月サイパン島の陥落、3万人が玉砕、民間人が2万5000人いる中で1万人が死亡する。
戦陣訓が現実化した。
サイパン陥落は日本本土への爆撃が日常的になる起点と成る。
戦陣訓は死を強要する、戦陣訓が持っている死生観は日本の文化、伝統に反すると思います。
兵士たちの生命を国家が預かったわけなので、それに対して国家は責任をもたないといけないが、責任感が希薄で自由に扱っていいんだと、言う形で戦争を考えたのではないかと思う。