小林一通(染色補正技能士) ・着物をよみがえらせる”しみ”ぬきにかけた我が人生
1948年東京生まれ、シミ抜きの国家資格、染色補正1級技能士です。
シミ抜きと言いますと、食べものや油などのシミを落とす物という印象ですが、染色補正はシミ抜きに留まらず、古いシミで黄色く変色してしまったり、色焼けした衣類に染色を施し、元の色に戻していくというもので高度な技術が必要です。
2007年に開かれた技能グランプリの染色補正職種で優勝して、去年現代の名工を受賞しました。
シミを取ってゆくと色がはげたり、黄色くシミがかわってたりするが、色を抜いていくが、染料で元の色に持ってくる、染料を使って直すのが「地なおし」という。
着物が中心、絹なので一番デリケートで難しい。
絵画の様な工房で、筆一本にもこだわっている。
5色 黄色、赤、緑、紫、黒で全ての色を全部出してゆくので非常に繊細。
足りなくなった色を足してゆく。
黄色いシミは薬品が良くなって、シミは良くなるかもしれないが土台の絹は劣化してしまう。
(この方が商売になるが)
昔風 コテを熱しといて、布きれを敷いて着物のシミ部分を置いて、上からたたきだすが、せいぜい石鹸を塗って、シミを剥がしてゆく。
細かい人形の絵が描いてあって、顔にシミが出たり、黄色くなってしまったりするが、ぜんぶ白く塗ってある胡粉を落として、打代の黄色くなった原因を落として、胡粉を塗ってあげてから、顔の眼だとか口などを書いてゆく。
どこを直したのだとかわからないようにするので、作品と言う様なものが残るわけでは無く、辛いところはある。
私の家は代々職人的な仕事をしていた。
好きな時間に仕事をして好きな時間に休めるように、サラリーマンでなければいいと思っていた。
何か作るものをやりたかった。
進学校だったので、高校3年生の時には勉強がつまらなくて、その後8年間修業を積む。
直した時の快感が嬉しかった。
師匠は18歳ぐらいから扱うのは難しいと言っていた、理屈をこねたりするので、先ずは言われた通りにやると言う事が出来て、その後初めて自分の考え方を出してゆく事が必要で、理屈をこねてしまう事は技能は伸びない。
大きくは間違ったことは教えてはいない。(50年100年の実績がある)
醤油のシミでも生地によって違うし、10年前と、1年前の生地でも違うし、決まりなどは一つもなく、
だが昔から言われている大まかなこと間違っていない。
先輩は自分のやりたい様な違う仕事をやっているが、自分は常に同じことをやっているので、いろいろ違う仕事もしたかったので、通いだったのを、住み込みをするようになる。
日本橋が染色、呉服が東京では一番で、神田川に沿って高田馬場、下落合などが染色関係が有名。
現在、師匠も、私の工房も高田馬場にある。
独立をして半世紀になるが、2007年に開かれた技能グランプリの染色補正職種で優勝する。
4つの作業を競う。
シミ抜きの試験としては墨(墨は抜きずらい)とスキヤキのたれ(醤油、砂糖、油、そのほかいろいろ煮込まれて入っているので非常に落ちにくい)は凄くいい問題です。
紋様消し作業 朱色の生地に家紋で白が入っているが、白い数mmの丸だけを消さないという課題だが、すごく難しい。(4つの中で一番難しかった、5日間やっても出来ないこともある)
4つ全て2日間、10時間でやらなければいけない。
京都が発祥で、公家さんの着物、裃の汚れを落としていた。
芸者、舞こ等のきものの汚れを取ることにも広がって行った。
後継者、若手が少しはいるが、着物関係の方がシミ抜き屋になる方が多い。
息子が後を継いでくれることになり、嬉しかった。
息子に仕事を教えることは、いろいろ気を使ってしまって、弟子の様には行かない。
弟子には盗んで覚えろと言っていたが、つい教えてしまったり、甘やかしてしまう。
シミ抜きにかかわらず、高度な技能の継承が出来ていない。
練習とお客さんの仕事では緊張感が全然違うので、高度な技能の伝承が難しい。
今の時代は、いいものが無くなって来て、良いものを見る目がなくなって来ている事が残念です。