沢 知恵(シンガーソングライター) ・日韓を歌でつなぎたい
1971年 神奈川県で日本人の父と韓国人の母との間に生まれ、日本、韓国、アメリカで育ちました。
3歳からピアノに親しみ、東京芸術大学在学中に、歌手デビューします。
98年には歴史的経緯から日本の大衆文化が規制されていた韓国で、初めて公式に日本語で歌って第40回レコード大賞アジア音楽賞を受賞しました。
その後も日本語や韓国の言葉で、曲を作り日韓両国で公演を行っています。
6月22日は1965年に日本と韓国が国交を正常化して、丁度50年になる節目の日です。
小さい頃は無我夢中で、楽しく国から国へと渡り歩いて、それぞれの文化を謳歌して、育った幸せな子供でした。
日本と韓国が仲良くしていなかったら、こんなふうに生きていなかったかもしれない。
1960年代、韓国に行く若者はいなかったが、父は一人の日本人として、償いたい、隣り人(となりびと)になりたいと純粋な気持ちで海を渡った。
大学で出会った母を見染めて日本に来て結婚して私が生まれました。
2歳の時に韓国で仕事をしたいと、一家4人(妹を含め)で宣教師として働きました。
父は朝鮮半島全体のキリスト教研究したいという事で、資料がアメリカのワシントンの図書館に在るという事で留学しました。
私は学校に行っても最初はちんぷんかんぷんだったが、直ぐにおしゃべりになった。
言葉は言葉だけではなくて、自然、文化全部を背負ってるものなので、生活の中で一致して、両親に自然にそれぞれの文化にどっぷりつからせてもらって有難うと言いたいです。
三カ国語の他にピアノの言語だったのかと思います。
小学校3年の時に日本に帰国、東京芸術大学に在学中に歌手デビューする。(1990年ぐらいでバブルの最後の頃)
英語で歌うのがかっこいいという様な時代だった。
母方の祖父が 金素雲という詩人だった。
祖父の詩集を手にとって見たら、訳された詩が美しかった。
こんな日本語を私は歌って見たいと思って、ピアノに向かって、読んだ。(「心」と言う詩)
「私の心は湖水です。 どうぞ漕いで おいでなさい。貴方の白い影を抱き 玉と砕けて船べりへ
散りましょう。 私の心はともしびです。 あの扉を閉めてください。 貴方の綾衣の裾にふるえ 心静かに 燃え尽きて あげましょう。」
読んでいたらそのままメロディーがついて5分、10分で一曲の歌になった。
これを境に日本語に引っ張られて行って、デビューして23年になりますが、日本語ばっかり歌っている、日本語の響きを伝えたいと思った。
出発点が「心」で、もともとの詩が朝鮮であったというのは、私にとって運命だったと思う。
祖父の身体の中で日本語と韓国語が溶け合って、私の中でもさらに溶けあって生まれてきた歌ではないかと思います。
韓国でも歌って見たいと思ったが、1996年は日本人がコンサートをするとか、日本語で、韓国で歌うのはあり得ない時代だった。
韓国語に訳して歌う事にして、うまく行った。
アンコールが有って、韓国語に直せなかった歌が有るといって、ラララで歌いますと行ったら、日本語で歌えという声が有ったが、ラララで歌って締めくくりました。
聴衆は残念だったと思います。
日本と韓国の歴史が動き出そうとしている、私たちも変わっていかなくてはいけないのではないか。
韓国もそろそろ変わっていかなくてはいけないのではないかと、感じ取ってくれたのではないか。
2年後日本語で歌う機会が有った。
当時は韓国でコンサートをする時に、政府に全楽曲の歌詞、メロディー、訳を提出しなくてはいけなかった。
1998年 光州でコンサートをする時に、日本語の歌を歌う事を許可するとの連絡が有った。
「心」、「ふるさと」だった。 (金大中大統領 日本の大衆文化を段階的に解放する政策行う)
「ふるさと」を歌い始めたら、一緒に歌い始める声が聞こえ始め、吃驚した。
植民地時代に「ふるさと」を歌っていた。
楽屋に何人もきてくれて 日本語の響きは抑制されていて美しいと感動しましたと言ってくれて嬉しかった。
日本でも韓流ブームが起きたりして、韓国文化がかっこいいという様にもなった。
歴史認識の問題は今も棘の様に刺さっている。
何が有ったかと言う事実を確認できないと、なにをという事になる。
相手の心に入るまで、伝え続ける事が大事だと思う。
もう一歩日本と韓国が刺さった棘を気にしながら歩み寄りたいのに、歩み寄れないでいるもどかしさ、音楽家として何かできるのではないかと言われている様な気がする。
「父の言葉」
「韓国を学びそれを日本に伝え、日本を学び韓国に伝えるという事は言うに優しいが、行うには至難の業である。
韓国での事実をそのまま日本につたえても、ニュースには成るが、日本人の心に入ってゆく事はない。
韓国を知るには、私と言う中間に立つものの屈折を経て、知識と感情の濾過を通してのみ、伝達可能になるのであろう。」
是は私へのメッセージだと思いました。
「知識と感情の濾過」 一番自然な形で出来るのが音楽ではないか。
日本と韓国の違いをお互い伝えあう事になったのであれば幸せな運命だと思います。
父は私が高校生の時に癌で49歳で亡くなったが、父が仕残した一部を歌で受け継ぐことができたら幸せです。
違いをもった人の心を一つに繋げるのが歌だと思います。
一回でも多く重ねてゆきたい。
ようやくスタートラインに立ったような気がする、私らしく歌そのものを届けたいと思う様になった。