2015年6月25日木曜日

嶋崎 丞(石川県立美術館・館長)  ・”工芸王国”の美と技の心を伝える(1)

嶋崎 丞(石川県立美術館・館長)  ・”工芸王国”の美と技の心を伝える(1)
昭和7年石川県生まれ 83歳  県立美術館に学芸員として就職したのは昭和34年の事でした。
以来、56年間県立美術館一筋の人生を歩み、定年後も嘱託を受けて館長を続けています。
石川県は加賀百万石の繁栄を誇った江戸時代から優れた工芸の伝統が育まれ工芸王国とも呼ばれています。
嶋崎さんは その豊かな伝統を受け継ぐ美術館の活動を推進するとともに芸術文化に関する各種の委員、国の文化財保護審議会専門委員、日本伝統工芸展の監査委員、審査委員を長年勤めて来られました。
半世紀を越える美術館人生の体験や今の思いを伺いました。

金沢駅を飾るとすると、工芸品だろうと、代表的な作家に作品を作って貰ったが、ギリギリでした。
美術館を作るときに、いろいろ議論が有ったが、やっぱり江戸時代からの延長線上に在る、伝統文化、その中でも、伝統工芸であろうという事で、伝統工芸というものを美術館の運営の柱にしようという事で、工芸を意識して集めてきました。
昭和34年に県立美術館に就職する。
大学では日本史を専攻していたが、卒業したころは朝鮮戦争の頃で、不景気で就職するところがあまりなかったが、石川県で学芸員の資格をもったスタッフを美術館に入れなければならないという新しい博物館法と言う法律ができて、私を紹介してくれた人がいて、この世界に入るきっかけになったわけです。
旧制小松中学のころに、運動場を耕して食料生産をやろうという事で耕したら埋蔵文化財が出てきて、今後は歴史学は物が語る時代が出てくるだろうという事から大変興味がわいて、一時考古学をやろうと思った時代が有った。

立教大学で棚橋源太郎という博物館学の有名な先生がいて、そこにいけばスタッフに成るための養成講座が有るという事で、そこを受けるべきだという事で、受けて学芸員の資格を取った。
当時は学芸員は認知度が低くかった。
開館記念には何を展示するかが、一番の課題だったが、石川の地域は素晴らしい古美術品があり、空襲にも震災にもあっていないので、見事に伝承されている。
できるだけ地元の文化財で構成した展覧会をやろうという事で、その代表作の一点に、山川庄太郎さんがおもちの雉香炉、かつての前田家の持っていたものと言われていた物を構成しました。
天皇陛下が石川に来ることになり、いままで人に見せたことはなかったが副知事が山川庄太郎さんがおもちの雉香炉を天皇陛下に見せられないかと交渉をして、お見せする事になったが、天皇陛下がご覧になって、個人の見事な古美術品であるが、これを県民、国民の宝として、公開できないものだろうかと言う事をおっしゃったみたいで、副知事が山川庄太郎さんにお伝えしたら、感動して寄付しようという事になり、それが美術館を建てるきっかけにもなり、公開することにもなった。
雉香炉は大変話題になり、全国から多くの方が見に来られた。
正式には色絵雉香炉 野々村仁清という江戸時代初期の京焼の名工が作ったもの。
今は、色絵雌雉香炉も一対で置いてある。
仁和寺の門前に窯が有ったらしくて、この雄と雌がつくられたと言われる。
それが離れ離れになっていたが、250年ぶりにペアになって展示されることにつながった。
美術館の象徴になっている。(一部屋にこれだけが飾ってある)
雄は前田家に入って、雌ももともと前田家に有ったのでは無かろうかと言う事だったが、その後前田家から出てしまい、雄だけが国宝になっていて、江戸末まで前田家にあって、それが山川家を経由して、今県立美術館にある。

京都文化が加賀にいかに影響をはたしているかと言う、象徴的な存在がこの野々村仁清なんですよと言うと皆さん納得される。
雌は重要文化財、平成3年に御寄付を頂いた。
山川庄太郎さんは他にも沢山美術品を持っていて、山川美術財団の組織にして、借用して展示したい旨を伺うと、羽織袴で、打ち水をして出迎えてくれ、お茶の接待をしてくれた記憶が有る。
旦那衆の厳しい御意見を聞いて、やっぱり勉強(目利き)になりました。
古美術は茶道技術を中心として、そのコレクションが大成されているお宅が非常に多い。
九谷焼が石川は有名で、誇れるコレクションだと思う。
古九谷(江戸前期)は豪快な色絵の絵付けの技法等々含めて醸し出す雰囲気は、日本の焼き物の中でトップだと思う。
有田の技法を学んだといわれるが、京都の雅、地方の伊万里等をミックスして、加賀の独特の美意識で作り上げたのが古九谷だと思う。

50数年の間にコツコツとそれなりの名品を意識してコレクションにつないできたと思っている。
漆、友禅等見事な伝統工芸が有る。
初代加賀藩主 前田利家の遺言状が残っていて、長男の利長に与えたが、書いたのが奥方の「お松」だったが、文武両道に長けた人間は素晴らしいという事で文にも力を入れる、文に長けているかどうかも見るべきだと遺言状に書いてある。
「文」は文化、芸術と言う事だろうと、3代前田利常あたりが痛切に考えたようだ。(幕府への認知度を高める)
日本の美術を凝縮した形で加賀の文化としてまとめあげてゆくが、5代まであたりに完成して作り上げてゆく事で、加賀の文化であろうと、それが今日の姿に転化して繋がって来ているのであろうと思う。

百工比照 もの作りの技をどういう形で残してゆくかと言う、職人の見本の為のコレクションとして、いろんなものを集めて、技の記録を残してくれている。
実践的に完成したのが5代の前田綱紀だったが、彼は百工比照という大コレクションを作る。
書物などのコレクションもしている。
織物、着物、裃、和紙、真珠の玉、建築金具、錠前、紐等ありとあらゆるものを集めている。
漆の工芸見本帳、金属の薬品処理等の見本帳等今日につたわっている。
加賀の工芸の凄さと言うものを改めて、百工比照のコレクションから垣間見ることができる。