綾戸智恵(ジャズシンガー) ・山あり谷あり歌があり
57歳 パワフルな歌と巧みなトークが魅力でコンサートはいつも満席です。
2001年には第51回芸術選奨文部科学大臣新人賞(大衆芸能部門)受賞、2003年紅白歌合戦で熱唱したテネシーワルツは大きな話題になりました。
しかし様々な仕事しながら歌い続け、初めてCDを出したのが、40歳の時と遅いデビューで、決して順風満帆な半生ではありませんでした。
今は母親の介護をしながらライブ活動を続けています。
母と父が親子ほど離れていて、33歳の時の子供でした。
両親ともジャズが好きでしたので、物ごころついた時にはジャズが聞こえてきていた。
塗り絵も好きなようにやりなさいと父親から言われて、自由に描いていた。
大阪万博では外国人が一気にきた。
パビリオンに行くより歩いてる海外の人達としゃべるのが喜びだった。
身ぶり手ぶりで知っている単語を一杯並べてしゃべっていました。
ピアノは3歳ぐらいからクラシックを始めた。
ピアノの思い出の先生は真木利一先生 クラシックで有名ですがジャズが好きだった。
中学に入った時の一年生の担任が吹奏楽部の顧問だった。
中村八大先生を紹介すると言われたが、中村先生は子供は無理と言われて、真木利一がいると言われて、真木利一先生に会って、偉い気に入られた。
真木利一先生は本を重視しなかった、情緒的だった、アンバランスに弾いても怒らなかった。
中学生の頃はレストランでピアノが置いてあって、そこで弾かして貰ったりした。
歌のデビューは会社に入ってからでした。
中学3年生の時にアメリカに行く。(1カ月と言う風に話す)
6月30日に出かけて90日間滞在する事になる
モーテルに泊って、ジャズクラブに行こうとするが、21歳以上でないと入れないと言われたが、厨房から聞かして貰ったりした。
歌手ではないのに歌わしてもらったこともある。
高校卒業後、大学が決まっていたが、入学資金でアメリカに行った。
すし屋でアルバイトしたり、通訳もした。
映画での曲が好きでレコード屋でその曲を探していたら、好きかと言われて、そうだと言ったら、明日教会に行くから一緒に行くかと言われてつれていってもらった。
ゴスペルに出会う。
気の合うボーイフレンドができて、結婚する事になるが、喧嘩(夫のDVが原因)をして離婚する。
1年間別居すれば、離婚が成立するので、息子を連れて日本に帰ってきた。
神戸を拠点に活動することにした。
子供は母に見てもらって、クラブでおしゃべりしたり、カウンターの中からお客さんとしゃべったりしていた。
お客さんの中に、ある企業の人がいて、パーティーに来てくれないかと言われて、ピアノを弾きに来る先生よりも面白いと言われて、そのうちに伴奏をするようになってたり、自分で歌ったり、会社のパーティーに呼ばれるようになった。
他に色々アルバイトもしたり、ジャズも家で教えることもしていました。
自分の歌いたい様に歌うことが大事。
98年 40歳でCDデビュー 44歳の時に第51回芸術選奨文部科学大臣新人賞(大衆芸能部門)受賞。
46歳で紅白歌合戦に出場 テネシーワルツを熱唱する、嬉しかった。
声帯が弱くて、使い過ぎで声が出なくなったのをきっかけに、デビューした。
身体全体でしゃべると、喉に負担がかからない。(オペラ歌手みたいなもの)
介護に頑張り過ぎて倒れてしまって、入院してしまって、3日と母をあけたことが無かったのに、10日以上入院するはめになり、母とは会わないことになる。
介護の限界を感じて、人の手も借りることになる。
母は90歳 脳梗塞してから10年近くなる。
介護は安心する事が一番いい。(リラックスさせる)
3年前に母が、本当の父が別にいることを告白した、舞台で女形の役者をしていた。
よく50年以上も黙っていてくれたなあと、その間私は自由の羽根の生えた鳥ですが、母はがんじがらめで、よく黙ってくれたなあと、そのことに感激して受け入れられたのかもしれない。
3年前会社を立ち上げて、40年前を振り返って、40年前のロサンゼルスの場所でレコーディングをした。
自分からは、山あり谷ありとは思っていない、来るものは来るので、山あり谷ありというのは、結果として、他人が言ってくれる事はあるが、自分からはそうは思わない。