2015年6月23日火曜日

大城光代(更生保護法人理事長)  ・沖縄女性初の裁判官としての私の人生

大城光代(更生保護法人理事長)  ・沖縄女性初の裁判官としての私の人生
大城さんは沖縄初の女性初の裁判官として活躍されてきました。
82歳になられた現在は更生保護法人ガジュマル沖縄の理事長を務めていらっしゃいます。
更生保護法人というのは主として刑期を終え、又は仮釈放で刑期を残して刑務所から出所した人の社会復帰をを助ける施設です。
大城さんは弁護士だった父親の跡を継いで、24歳で司法試験に合格しました。
沖縄で初の弁護士として活動した後、思うところが有って、35歳の時に那覇家庭裁判所の裁判官になりました。
その後、福岡、東京、静岡、横浜の高裁、地裁、家庭裁判所で、裁判官として事件を担当してきました。
定年後は故郷の沖縄に戻って様々な社会活動をしています。

更生保護法人は保護観察所の指揮監督のもとに、刑期を終え、又は仮釈放で刑期を残して刑務所から出所した人、保護観察をつけられたものなど、受け入れて社会復帰を手助けする仕事です。
父親は安里積千代 沖縄社会大衆党委員長、その後衆議院議員になる。
父親っ子だったので、必ず父みたいになると言っていた。
台湾の高尾に父は行っていて、農民たちに関する仕事をやっていて、バナナ、マンゴウ等を持って来てくれて、子供心に弁護士はいい仕事だと思った。
弁護士は弱い人たちを助けるいい仕事だと思った。
当時は沖縄の通貨はドルだったので、月30ドルだけ送ってくれたので在学中に何とか受かりたいと思ったが、失敗してして就職してから受験を続けたが、なりふり構わず一生懸命勉強しました。
沖縄初の弁護士となる。(昭和32年)

新民法ができて沖縄中を説明して歩いた。
女性の弁護士の力を世間が認めない。
父や夫の補助者としか見られなかったのが一番いやだった。
早くから裁判官の要請があった。
父が国会議員になったのでその後釜として政治の世界への要請が有ったが、政治家には成りたくなかった。
そういった色々なことが有り裁判官の道に進むことにした。
本土復帰の時に転勤の話はあった。
夫が福岡に行けと言ってくれて、息子が熊本の学校に行っていたし、むしろ喜んで行く事にした。
裁判官として務まるか、不安はあったが、地裁で民事事件をやりたかったが、家裁の少年係を担当する事になる。
44歳の時に突然夫が亡くなる。
たまたま帰った時に、食事で呼んだが、返事が無く2階にいて意識はなかった。(心筋梗塞)
 
一番忘れられないのは、ホテルニュージャパンの火災による死者の遺族の方々の起こした損害賠償事件を担当したことです。
TVのニュースを見ていて是は自分が担当するのではないかと、予感が有った。
現場を見に行ったが、外観は立派だが本当にずさんな建築だった。
壁はベニヤ板、スプリンクラーが無かった。
火元は外国人の人の寝たばこ、9階から出た火がまたたく間に燃え広がり、33人が亡くなりその一部の人の担当をする。
横井英樹社長の言動が問題となる。(のらりくらりとした責任逃れ)
社長の資産が無かったので、金額に不満の方もいたが全員和解する事になる。

嘉手納飛行場、土地所有権確認訴訟が有った。
那覇地裁では請求棄却になって、見たら、嘉手納飛行場は日本軍がもともと作った跡、原告の人たちは滑走路部分に土地をもっていた。
最初に取り上げられた土地で、原型が変わっていて、判らなくなっていて、集団和解方式で争いのない様にして、全体としての土地が原告のものであるか、国が買ったものであるかの争いになる。
国のいい分は昭和19年に買ったという事だったが、登記はできている部分もあるが、売買契約書が無い、宮古八重山の土地の代金支払いに関する書類が有って、それを根拠に国が同じころに買い受けたという主張だった。
土地の代金支払いに関する書類の日付けが昭和19年10月11日だった、十・十空襲の翌日だった。
これに疑問をもって、大空襲の翌日にこれだけの書類が発送されたのか、届いたのか、お金の支払いが有ったのか、全く分からなくて、其れを根拠にするのはおかしいじゃないか、売買の形を取ったとしても強制収用じゃないかと、現金ではなく国債で払うという事は何の役にも立っていない、これは取り上げられたに違いない。

戦後米軍が接収して、国が借り上げて米国に貸すという形になって、、地主たちが全部土地代金を貰って、米軍上陸は4月、僅か半年違いでこれだけの差が有っていいものだろうかと、国を相手に和解を勧告した。
土地が原告たちのものであることをみとめるが、その代わり住民は過去の土地代金は請求しない、将来に向かって土地代金を請求するという和解案を出したが、住民は納得したが国は(大蔵省)は認めなかった。(他への波及を恐れ考慮したのではないか)
途中の段階で、担当した3人共に転出させられてしまって、後任が行い、国のいうことを認めることになってしまった。
住民たちは上告したが、棄却されてしまった。
非常に残念でならない、もし私がそのまま続けていたら、地主たちの請求を認める判決を変えたと今でも思います。

昭和27年3月にパスポートをもって青雲の志をもって、横浜に来て、横浜で定年を迎えられたのは嬉しかった。(65歳)
県の機関の法律律相談を受けようとして、弁護士の登録をしました。
本土に15年間いたので、沖縄で恩返ししようと15年間勤めようと、80歳までは弁護士としてお役に立ちたいと思った。
現在は更生保護法人ガジュマル沖縄の理事長を務めています。
尊厳死協会に入る(無駄な延命治療はしたくない)、献体登録もする。(もったいない精神)
自然葬で沖縄の海に散骨してもらいたいと思っている。