ロイ・ビッショジト(滋賀県立盲学校教員) ・母国に伝えたい、日本のあんま鍼灸技術
バングラデシュ出身の37歳 、先天性の全盲です。
日本の按摩、鍼、灸の技術を学び、母国の視覚障害者の自立に役立てたいとの思いを胸に、20年前に来日しました。
高知県立盲学校、筑波大学理療科教員養成施設を経て 2002年から盲学校の教壇に立っています。
2005年にはNPOを設立、バングラデシュの視覚障害者に奨学金を贈る活動に取り組んでいます。
昨年日本での生活を支えてくれた妻の英代さんをがんで亡くし、現在2人の子供とともに滋賀県彦根市で暮らしています。
生理学、臨床(外の患者さんの治療の指導)、病理学、点字指導等を担当しています。
点字は6点の組み合わせで、日本語とベンガル語は違います。
来日当初は日本語はほとんど判らなかった。(早口のため)
日本に来て半年以降は、友達と話せるようになった。
特別な授業を週3時間、日本語の勉強をするが時間が足りないので、録音テープを使って朝4時から勉強しました。
一番大変だったのはお箸の使い方だった。(バングラデシュでは手で食べていた)
一時諦めたが、友達とラーメンを食べに行った時に、フォークを頼んだら子供用のフォークが出てきて、恥ずかしい思いをしながら食べた。
恥ずかしい思いをばねにお箸の練習を再開した。
バングラデシュの田舎の村(首都から600km離れている)で、当時は電気もなかった。
8人兄弟の末っ子だった。 眼が見えないのは私だけだった。
10歳ぐらいの時に父は亡くなる。
友達とは泥まみれで遊んだりしたが、田舎には視覚障害者の施設が無かったので、寄宿舎のある町の学校に行った。(母親は泣いたが4歳から行く)
長い夏休みなどは家に帰って、かわいがられ、寄宿舎に帰る時はさびしい思いをした。
ダッカ大学に入って、日本人の先生の方が来て、奨学金制度が有り、日本に行けるかもしれないと言ってくれた。
バングラデシュの弁論大会で準優勝してTVで放映されたり、成績優秀等で新聞に載ったりしたのを眼に留めてくれた。
日本の事は学校で情報入手はしていた。
大学の先生も日本人はとても親切だと言っていた。
試験、面接受け、日本に来ることができるようになる。
按摩、鍼、灸の事は全然知らなかった。
バングラデシュにはこのようなものはなかった。
奨学金の目的は技術を母国に広めて障害者の自立につなげるという目的がある。
障害者に対して制度的に、職業的にも、教育的にもは日本にくらべて厳しい。
一般の人に按摩、鍼、灸の事を先ず知ってもらう事が必要。
2005年にはNPOを設立 「バングラデシュ視覚障害者支援協会ショプノ」 奨学金支援、点字盤を送ったりしている。
将来的には按摩、鍼、灸を広めることを含めて立ち上げることにしました。
現在まで、奨学金支援としては45名の学生に提供しています。
点字盤は140名に送っています。
支援の資金は会員の会費が主で、イベント、バングラデシュの手工芸品を販売したり、募金などを行った。
支援を受けた人からは手紙、メール等から非常に役立っていると、感謝してます、頑張っていきたいとの声を受けている。
妻が昨年の1月に亡くなる。
事務的なこと、イベントの準備等中心に行っていたので大事な存在だった。
滋賀大学のあるイベントで知り合う、結婚は2004年、闘病は4年間、大腸がんと闘う。
亡くなった時は子供は8歳と5歳だった。
妻は優しく、ボランティア精神があり、心の広い人でした。
子供たちも頑張ってくれていて、周りからの支援もある。
家族内では日本語、ベンガル語でも話しています。
子供達は食事の事、マラソンの手引き(手を紐で結んで走る)等やってくれます。
5kmのマラソン大会にも一緒に出た。(日本に来てから持久走を覚えて、長く走ることの面白さを覚えた) 5km、10km、ハーフマラソン、フルマラソンも14回走りました。
達成感に魅かれる。
20年間、楽しいこと、苦しいこと、いろいろあったが、周りが親切で、サポートしてもらったり、全体としてはいい時間だったと思います。
NPO活動を通して母国の支援をもっといい方向に持って行けたらなあと、按摩、鍼、灸を広める様な活動、教育的な支援をもっとできるようにして行けたらなあと思います。
自分自身も磨いていきたい。(勉強、趣味、マラソン、精神的なもの等)