崎原真弓(バスガイド) ・ウチナンチューの心を語り伝えるバスガイド
沖縄県では6月23日を沖縄での組織的な戦闘が終了したことにちなんで、戦没者の霊を慰めるため慰霊の日としています。
沖縄生まれでフリーのバスガイド崎原さんは、戦跡や観光地を回ってガイドするだけでなく、沖縄のルーツや先人たちが育んできた沖縄の心を、自ら工夫して歌や芝居にして、バスの中で伝えている型破りのバスガイドです。
他のガイドさんがやっていないことを バスの中でするように成りました。
沖縄の歴史や文化をちゃんと伝わるようにするためにはどうするかを考えました。
先ずは三線 沖縄の三味線 沖縄の歴史を語る上では欠かせない、ゆりかごから墓場までと言われている。
誕生祝いの席で、三線が始まります、お墓が完成すると完成祝いの時に三線を奏でます。
地域の行事にも必ず三線が出てきますし、暮らしの中に根付いていました。
久米島に育って、高校を出てバスガイドになるために本島に来ました。
バスガイドを8年で辞めて、県外に就職したが、沖縄の民謡、踊りが良かったとの話を聞いて、どうして取り入れないのかなと感じた。
バスガイドをもう一度見直してみようかなあと思った。
戻って一から芸能(家でも三線、踊り等はやっていたので)を活かしたガイドをしようと思った。
姉が2000年にガイドクラブを立ち上げようと言う事になって、ひまわりガイドクラブを立ち上げた。
自由なスタイルでガイドができる条件が揃った。
三線、踊り、空手を披露したり、お婆ちゃんの格好をして沖縄の琉球王国時代の歴史を語る。
時代風景が判るようにBGMを自分で作って、お婆ちゃんの言葉で先人たちの生きざまが伝わるようにお芝居にして語っています。
芝居は40分ぐらい掛かるが、移動場所、場所によって時間を柔軟に対応する。
最初沖縄の言葉で挨拶する。
沖縄の歴史は割愛するところは割愛して、琉球王国の時代から始めています。
1400年~1500年代 いろんな国々(中国、朝鮮、日本、東南アジア)と大貿易をした時代が有る。
薩摩が琉球を攻めてきたが、その時は武器をもたない、和をもって尊しとなす、和を大事にしながら国際交流を深めていた時代だった。(戦争をしない国つくりをしていた)
1609年薩摩の占領下の後、15カ条の掟に縛られて厳しい税金取り立てに物凄く苦しめられるが、和を大事にする教育を受けてきたので、共存共栄の精神が根づいていたせいか、負の感情がこみあげる物をプラスの感情に、すでにあった護身術と中国の拳法を加えて試行錯誤をして琉球空手が生み出される。
琉球空手の奥義は空手に先手なし、あくまで完全防御、先に決して手を出さないのが琉球空手の教えです。(お婆さん姿で空手のしぐさをする)
戦争が有ったから、命は宝だというのではなくて、琉球王国時代から命の尊さを大事にしていたし、先祖を崇拝にしていたし、命を授けてれくれる自然の恵み、自然の神々に対する崇拝の念もとても強かった。
御嶽(うたき)と呼ばれる自然のパワーがみなぎる場所、そこに神々が宿るという事で女性たちが感謝を伝える祈り、歌、踊りを奉納して、祭祀を受け継いできた。
自然の恵み、海の恵み、山の幸、それはただで頂いているわけではないのでありがとうの感謝、が祈り、歌、踊り、芸能へと変わって行ったと思います。
そういったことを聞いて、県外の人は驚かれます、沖縄の人は改めて再確認されます。
命のもとに、尊ぶ心、感謝する心を持ち続けた人々、そこに戦争が起こって、まさかと言う想いはあったと思いますし、おばあたちは祈るような思いで家族が無事であるように祈る思いが有ったし、戦争によって命の大切さが更に深まったと体験談をきいてそう思います。
その時代に生きてきた人たちの思いを後世に伝えてゆく事が私としてのガイドの役目だと思います。(語り部でもある)
老人クラブのお爺さん、お婆さん達から色々と皆さんから聞きました。
4人に1人が沖縄では亡くなっている。
極限状態で、自分の腕の中でお子さんをあやめた人もいたと聞いてますし、集団死と言う事もありますし、親が子を、夫婦で、子が親、祖父母を、という様な事も聞いています。
経験した人達はそれをなかなか語れないと思います、体験談を聞きながら、本人の思いを感じ取って自分なりに伝えて行きたいと思っている。
戦争を知らない人が多くなって戦争を知っている人が少なくなって来てしまって、風化してしまって、判らないから同じことを繰り返してしまう可能性があるので、少しでも戦争の悲惨さを伝えていこうと思っている。
人に思いやりを持てないと、平和の心を育んでいかないと思います。
先人たちが体験したからこそ、大切なものを歌にして諺にして残しているので、私たちは次の人に伝えてゆく。
沖縄には基地経済に頼っている人が沢山いるし、基地もないと沖縄の経済も成りたたないのかなあと言う考え方もあったが、基地が返還されたところでも雇用拡大につながって基地が有る時よりも、経済効果は倍に増えて行っているという実績が那覇とか北谷(ちゃたん)町とかに在るので、別に基地が無くても、それに代わる経済を生みだすことができるんだと実績が有る。
戦争が終わった後、アメリカ軍は沖縄中に基地を作っていって、日本は独立するが、沖縄にそのまま米軍がとどまって、沖縄の人がOKをして作らしたのではなく、米軍が勝手に作ってきたものであって、辺野古に基地を作らせるという事は、或る意味沖縄のひとが良いですよと、了解して作らせる様な事になりかねない。
土地を返してほしいという運動を続けていたが、土地代をドンドン上げてゆく、それを繰り返しをしながら、これぐらいの土地代が入るなら、良いんじゃないかと妥協した方々がいると思う。
諦めてしまって今日に至ったのではないかと思う。
爆音被害、子供達を巻き込んだ暴行事件、墜落事故等を話した上で、安心安全を守るために、基地を縮小してゆく事を訴え続ける話をしています。
基地の中に働いている人は8000人いますし、軍用地主 軍用地料で生計を立てている人たち、アメリカの人達を相手に商売をしている人達等がいて、観光業の次に経済を支えているのが、基地経済であるという事実も話をしています。
金網、金網、金網がずーっと続いている基地の多さに県外から来た人は驚いている。(日本国内のアメリカの専用米軍基地が74%ある)
軍用地料等で潤っている地域、予算を頂いている地域、は福祉厚生関係に注ぎこめるし、基地が無くなくなった方がいいですよと、本音で話せない部分もある、その人たちの本当の気持ちが判らないから。(無い方がいいと思ってるんだろうけれども、難しいところです。)
一期一会の精神で、お客さんと対応している。
客層(小学生からお年寄りまで)に合わせて臨機応変に話をしてゆきます。
自分なりの解釈で、心を伝えるという事を続けていこうと思っています。