千玄室(裏千家 前・家元) ・一椀の茶にこめた思い 前編
千玄室さんは裏千家第14代家元・碩叟宗室の長男として1923年(大正12年)京都に生まれ今年100歳になりました。 昭和18年に同志社大学在学中に、学徒出陣で海軍に入隊、20年に特別攻撃隊に志願しましたが、出撃することはありませんでした。 今の特攻隊の生き残りとしての使命感から、出撃してしまった同輩への思いを強く感じています。 千さんはお茶の精神を通して、争いのない世界の実現に心血を注ぎ続けて居ます。 お茶席においては身分の上下など全く関係なく、みな平等だという考えの「一椀からピースフルネスを」という理念で世界を回り、平和を唱えています。
私はお茶の宗家に生まれて、明治維新までは武家であって茶家であって禄高を頂いていたのが、御維新で禄高を離れて、それから家元制度と言いうものに入りました。 千利休という方が茶の道を大成されてそれから450年続いています。 大正12年生まれで、まだ世のしきたりが大変難しい時でした。 武家作法とお茶の日常的な生活態度のすべてを嫡男として強く鍛えられました。 将来家元を継いでいかないといけないという事で、両親から非常に厳しいしつけ、教育を受けました。 弟が二人います。 小学校の頃に私が帰ってくると、勉強が大事ですが、すぐお稽古をします。 お茶は総合的な文化体系であるので、お点前、作法という事ばかりではなく、道具、茶碗、花活け、掛物などすべて人間にとって大切な美術工芸を勉強しなければいけない。 心の中も勉強と同時にお茶の道に対する構えが出来て行きました。
8月15日という敗戦に日を迎える。 私たちは昭和18年学徒動員、文系の大学生は20歳になると全部徴兵検査を受けることになる。 合格して戦争に行って帰ってくる。 8月15日は悔しい、悲しい、多くの仲間が亡くなり、広島、長崎にも原子爆弾を落とされて日本が壊滅状態になってしまった。 私たちは海軍でした。 第14期海軍予備学生として大日本帝国海軍に入隊、舞鶴の海兵団に入隊しました。 試験があり飛行科を受けました。 試験官に「不惜身命 但惜身命」ということを言いました。 命を惜しむな、しかし命を無駄に捨てるのはいけない、という意味ですが。 土浦海軍航空隊に転属し、士官になるための基礎軍事訓練を受けることになりました。(2か月半) 学生たちに将来海軍にはいる準備として、水上機の訓練のため琵琶湖で訓練をしたこともありました。 これも受かった原因です。
徳島海軍航空隊に転属となりました。 「お前たちは死にに来たんだろう。」と言われて、飛行機と共に敵に体当たりしなければいけない、それの訓練です。 10か月の厳しい訓練を終えて海軍少尉に任官しました。 特殊科学生に採用されて、ここから2か月間特殊訓練です。 夜間飛行、急降下など身に付けたら、1945年4月の初めでした。 徳島海軍航空隊も特別攻撃隊の編成を命じられました。 白い紙を渡され、特別攻撃隊に志願するかしないか、「諾」か「否」かを書く様に言われました。 西村晃(俳優)さんとはいつも飛行機に一緒に乗っていました。 「否」と書いたら、返って出されるぞ、と話し合い、私は「諾」に二重丸をしました。 1週間後に全員集合があり、「全員特別攻撃隊の要員として命ずる。」と言われました。 特攻の訓練を終わったものから順次、鹿児島の鹿屋の基地に飛びました。
茶箱を持って行っていたので、お茶をふるまったりしていました。 10人程度の仲間とお茶を飲みながら、もう帰れないんだと実感しました。 西村が母親に会いたいなあと言って、茶碗を置いて「お母さん お母さん」と呼んだんです。 皆も叫びながら順次出て行きました。 皆突っ込んで行きました。 私も出て行こうとしたときに、「待機命令が来ている。」と言われました。 私は無残にも残され、悲しかった、苦しかった。命令で松輪?の基地に飛びました。 特攻隊から予科練の教官になってしまいました。仲間は次々に死んでいって、学徒動員で入った仲間460数名は靖国で眠っています。 徳島海軍航空隊から飛び立った32名はどんな思いをして沖縄周辺に眠っているか、「自分たちは国の為よりも、親兄弟のために死ぬんだよ。こんな戦争は二度と起こしてはあかんわ。」みんなそういいました。(涙ながらに話す。) 今の若い人たちはそんなことはわかりません。 無残ですよ、戦争は。 私だけはなんで生き残ったのか、そうしたら西村も生き残っていました。 奄美大島から出たとたんに、エンジンが不調で不時着して負傷もしないで帰って来ました。
戦争が終わって昭和21年の5月のメーデーでしたが、私は東京に出掛けて文部省に行きましたが、ふっと見たら「演劇労働組合」という旗が来ました。 その中から「千」と呼ぶ声が聞こえました。 西村や、と思って行きました。 二人で抱き合って、「生きてってよかったな。」と涙を流しながら一緒に新橋ま行進しました。 周りの人たちも「よかったなあ。」と手を叩いてくれました。 一人は俳優になり、私はお茶の家元になりました。 時間があれば西村と一緒に沖縄のいろんな所に行って、お茶を奉げて慰霊をしてきました。 戦後78年、学徒出陣から80年、多くの学生が亡くなりました。 彼らが生きていれば、彼らが残した仕事も大きかったと思います。 学なかばで亡くなり、命を奉げた連中のことは、私は死ぬまで忘れません。
武には負けた、だが文には、一椀のお茶をもって、世界人類の平和のために、口で「平和」と言ったって平和はくるものではありません。 ロシアの侵略戦争を、どんなにみんなが叫んでもあの侵略戦争は治まりません。 一椀のお茶をもって世界70か国余りを回って来ましたが、皆賛同してくれました。 お茶は労わりです。 人に対する思いやりをお茶は全部教えているんです。 その思いやりが「和み」なんです。 一椀のお茶で、世界に日本の伝統文化をもって、二度とそういう争いがないように、人間同士が差別をしてはいけない。 茶室に入る時には平等である、それを世界中に教えました。 垣根を越えさせるのがお茶の魅力なんです。 皆の心が穏やかになるんです。 平和に対する理念、お茶をもって進めなければいけない、これが茶道の本当の姿なんです。