藤木幸夫(港湾荷役事業会社相談役) ・ミナトに生きる
藤木さんは93歳、昭和5年生まれ。 父親の港湾荷役の仕事を引き継ぎ、港湾関係の経営者や労働者を束ね、戦争の焼け野原から立ち直った横浜の発展を支えてきました。 横浜港湾協会会長、横浜スタジアムの会長などを務め、紫綬褒章 勲三等瑞宝章を受章しています。 その影響力の大きさからハマのドンとも呼ばれてきました。 波乱に富んだ人生と港横浜への熱い想いを伺いました。
地球上に700大きなコンテナターミナルがありますが、能率の面でも連絡の面でも信頼度の面でも横浜港がトップの座を今でも占めています。 港の仕事をやっている人はみんな港湾人なんです。 8時に寝ると1時、2時に目が覚めるんですね。 それから朝まで本を読んじゃうんです。 88歳で父親は元気で会社に通っていました。 私もその域に来て説明できない身体の変化があります。 人様に迷惑を掛けるようなことはないです。 会社には毎日来ています。
会社は港湾荷役作業をやっていて、港の中で船と丘の間で行われる貨物の積み下ろし作業で、コンテナ船からコンテナをカントリークレーンという巨大なクレーンを使って積み下ろしをする。 コンテナは長さが12m、重さが数十トンある、それを「プロフェッショナル」というテレビの番組では1時間に50本あげているが、それは神業です。 港湾学校を作ったのも横浜です。 オランダへ行ったら固縛した船があり、これは港湾の学校だと説明されて、校長先生が文部大臣だった。 その後一人で7回行きました。 港湾学校の開港の日に27名のオランダ人が開校式に来ました。
日本の貿易の99,5%が船によるものです。 コンテナ船は最初3000~5000個ぐらいがアベレージでしたが、今は2万個の船が出来て、船も300mのものがあります。昭和30年代までは人力で積み下ろしをやっていました。 荷姿も違っていた。 事故は絶えませんでした。 象の鼻パークには慰霊碑があります。(藤木氏が建てた) 仲が良くないと仕事が出来ませんでした。 肉体労働者なので荒っぽかったです。 石原裕次郎、宍戸錠などの映画で博打をやり、刺青をして、ピストルを持っていて、麻薬をやり、といった場面がちょこっと入っている。 それが横浜の恥をさらしているという事に気が付かなかった。 北海道に募集に行った時に応募しようとしている母親が来て、「うちの息子は刺青をしていないが勤まるでしょうか。」という質問だった。 吃驚したが、映画のなかのようなことは絶対ないんだと説明しました。
藤木企業の創業者である父親、藤木幸太郎は港湾荷役の親方だった。 網走、仙台、千葉の刑務所を出て行くところがないと、藤木さんのところに行って堅気になってと、皆奨励するんです。 その人たちのために1軒作りました。 そこで私は生まれました。 浪花節の聞こえる中で育っていまだに覚えています。 両親は30,40人ぐらい面倒を見ていました。 私の小学校の入学式などや、小学校の往復も若い衆がついていました。 若い衆が「この子は親分だぞ、わかったな。」と言ったんで、私の事を「親分」というようになりました。 子供だから苗字だと思ってたんですね。
小学校5年生の時に戦争が始まりました。(昭和16年12月8日) 神奈川県立工業学校に入ったのが昭和18年でした。 当時工作機械を持っていた工場は軍隊のために存在するものでした。 ハイスピードスチールが当時はにはなくて、まがい物を作ってやっていました。 1945年5月29日に横浜大空襲がありました。 44万個の焼夷弾が投下され、3650人以上が犠牲になる。 シェーパーという工作機械を使ってやっていて、空襲警報が鳴りました。 校庭には防空壕が作ってあり、黙々とそこに入って行きました。 飛行機の編隊で空が暗くなりました。 学校が燃えだして、消さなければとみんなが飛び出し、中には亡くなった生徒もいました。 結婚したばかりの若い先生も亡くなり、バックルなどを先生をしていた奥さんに渡したら、大声で泣きだしたのをおぼえています。
保土ヶ谷に大島鉄工という鉄工所があって、工場に派遣されました。 玉音放送がありました。 戦後は高校に合格すると野球部入部志望者が全員なんです。 早稲田大学政治経済学部に入りました。 戦後の子供達は全部が不良でした。 中学生に弁当をたかったりするのが普通でした。 「ドングリチーム」という子供の野球チームがあり、或る時監督になって欲しいと頼まれました。 ミーティングもあり、憲法、社会党について、恋愛、本を読むようにとか、説きました。 新聞を出したり、道路をなおしたり、夜警をやったりして話題になっていました。 神奈川警察が表彰することになったそうですが、断りました。(冷蔵庫にビールが入っていて、中学生がビール飲んでいるという事が書かれるとまずいので。)
港で仕事がしたかったです。 父の会社に入りましたが、冷たく扱われました。 昭和40年代になってコンテナを扱うようになり、雨に関係なく仕事が出来るようになりました。 中国の大連港に対してアドバイスをしました。 兎に角呑気なやり方をしていました。 大連から研修生も受け入れました。 今でも受け入れています。
2019年に一般社団法人「横浜港ハーバーリゾート協会」が設立される。 横浜港は物流では限度かもしれません。 ディズニーークルーズが来るようになりました。 お客さんもエクセレントなんです。 住んでいる人間が横浜に生まれて、横浜に住んでよかったなと、言われるような横浜港であって欲しい。